
※今回からしばらく「伴走」について考えてみます。本稿では、伴走者が心得ておくべきことやその理由などについて、自戒を込めて振り返ることとします。
衝撃のゴール直前: 失格となった「メダリスト」
2024年夏、パリ。パラリンピックの女子マラソン(視覚障害T12)で、世界中の視聴者の胸を締め付けるような出来事が起こってしまいました。
3番目にゴールしたスペインのエレナ・コンゴスト選手が失格になったのです。ゴールラインのわずか数メートル直前、彼女とガイドロープ(絆)で結ばれた男性伴走者が崩れ落ちそうになります。彼女は反射的に彼を助けようとし、その拍子に結んでいたロープを手離してしまいました。結果は「失格」。彼女が手にするはずのメダルも手から離れて行ってしまいます。このニュースを耳にしたとき、多くの人は「なんて残酷な」「彼女は彼を助けようとしただけなのに」と心を痛めました。代わりに、4番目にゴールした日本の道下美里選手が銅メダルを獲得したのですが、この道下選手自身、実は、過去に同様の経験をしています。2022年、東京開催のハーフマラソンで、当時の世界記録を上回ってゴールしながら、伴走者が先にゴールするという違反で失格になった経験があるのです。
なんともやるせない話ですが、この競技の厳格なルール——「伴走者は選手より先にゴールしてはいけない」「ロープを離してはいけない」——の裏側には、私が取り組む教育支援においても極めて重要な本質が隠されている、と受け取るべきなのかもしれません。
主役は誰か、という冷徹なまでの問い
なぜ、伴走者が先にゴールしてはいけないのか。それは、この競技の主役がどこまでも「選手本人」だからでしょう。伴走者は、選手の「目」となり「耳」となりますが、選手に「推進力」を与えてはいけません。あくまで選手自身の力で、選手自身の意志で42.195kmを走り抜く。その「自律」を担保するために、伴走者には冷徹なまでの「引き際」が定められています。もし伴走者が先にゴールラインを越えてしまったら、それは「伴走者が選手を連れてきた」ことになってしまいます。それでは、選手の努力を証明することができません。
私たち大人が、子どもの学びや探究に関わるとき、この視点を忘れてしまってはいないでしょうか。「私が教えたから、この子はできるようになった」「私が導いたから、このプロジェクトは成功した」。そう勘違いした瞬間、私たちは伴走者ではなく、主役を奪う「略奪者」になってしまっているのかもしれません。
「伴走者の不調」という最大の罪
パリのエピソードが私たちに突きつけるもう一つの真実は、「伴走者は、選手以上に心身を律していなければならない」ということです。
伴走者が足を引きずれば、選手は自分の走りに集中できなくなります。伴走者が倒れれば、選手は失格になります。つまり、伴走者の不調や準備不足、そして感情の揺れは、主役が積み上げてきた努力をすべて台無しにする可能性すらあるのです。
探究学習の場に置き換えてみましょう。「よい伴走者」であるべき大人が、自分の忙しさや気分のムラ、あるいは基礎的な知識の不足という、いわば「不調」を抱えたまま子どもの横に立つとどうなるでしょうか。子どもは大人の顔色を伺い、大人のペースに合わせて行動するようになり、本来の輝きを失っていくでしょう。
伴走者には、選手(子ども)が時速15キロで走りたいなら、時速20キロで走れるだけの実力と余裕が必要です。その「5キロ分の余裕」があるからこそ、路面の小さな石ころに気づき、選手のわずかな呼吸の変化を感じ取ることができる。大人が学びを止め、余裕を失うことは、子どもの「探究の安心・安全」を犠牲にすることと同じなのです。
出された「手」が、子どもの可能性を奪うとき
ちょうど今日、私はある幼児教育の事例に触れ、背筋が伸びる思いがしました。ある保育者が、まわりには危なっかしく見える動きをしている幼児を助けようと、そっと手を差し伸べた場面です。保育者はもちろん「支援」のつもりでした。しかし、その手を見た幼児は、パッと動きを止め、縮こまってしまったといいます。なぜでしょうか。その子はそれまで、「自分が何か危なっかしいことをしている」という意識をまったく持っていませんでした。大人が差し出したその手を見て、それを意識し、ドキドキしてしまったのです。
他にも、大人の「助け」が、「警告」や「否定」として映ることがあるかもしれません。「今の自分は、何か悪いことをしているんだ」「自分一人ではできないと思われているんだ」。良かれと思って出した手が、子どもの「やってみたい」という芽を摘んでしまう。これは「悪い伴走」の典型といえるものでしょう。大人の側に「失敗させたくない」「早く正解に導きたい」という性急な気持ち(自制心の欠如)があるとき、その「手」は、子どもを支えるためのものではなく、大人の不安を解消するための、その大人自身のために差し出されたものになってしまうのです。
「待つ」という高度な技術
伴走者にとって、最も難しい技術は「何もしないで見守る」あるいは、「我慢して待つ」ことです。 ただ横に座り、同じ方向を見つめる。子どもが迷っているときも、あえて口を出さずに「迷う時間」を保障する。これは、決して放任ではありません。いつ転んでもいいように、心の準備を整え、いつでも受け止められる実力を持ちながら、「本人の力」を信じて待つ。この「ネガティブ・ケイパビリティ(答えのない事態に耐える力)」こそが、「できる伴走者」に求められる資質の一つといえるでしょうか。
私達が伴走者としてゴールラインを越えていくとき、理想的な姿は、周囲から「あれ、伴走者はどこにいたの?」と思われるほど、その存在が透明であることかもしれません。主役が「自分の力だけで走り切った!」という誇りに満ちた顔でゴールテープを切る。その一歩後ろで、静かに拍手を送る。それが私たちの目指すべき場所であろうかと思います。
伴走者の心得: 透明なガイドを目指して
新シリーズ「伴走編」では、これから数回にわたって、この「付かず離れず」の絶妙な距離感をどう作っていくのかを深掘りしていきたいと思っています。
私たちは、子どもの「目」にはなれても、子どもの「足」にはなれません。私たちは、子どもの「地図」にはなれても、子どもの「意志」にはなれません。
まずは、自分が主役の前に立っていないか、自分の都合でロープを引っ張っていないか、自分自身の足が攣ってしまっていないか。そのようなことを、自分自身に問い直すところから始めてみたいと思います。
10歳からわかる「まとめ」
・「伴走者」は、主役の邪魔をしない人。マラソンでも勉強でも、走るのは選手本人。伴走者が先にゴールすると、選手の記録は無効になってしまう
・だれよりも「余裕」を持っておく。いっしょに走る人は、だれよりも元気で、だれよりも走路の状態をよく見ていないといけない。そうでないと、主役を守ってあげられない
・「手」を出すときは、よく考えて。 助けてあげようとして出した手が、「君にはムリだよ」というメッセージになってしまうことがある。じっと待つことも、大事な助け
・最後に笑うのは、主役であってほしい。「自分ひとりでやりきったぞ!」と主役が思えるように、となりにいる大人は、「透明になる」つもりでいよう
*本原稿は、ジェミ兄さんとの対話を基に構成されました。
※今後、伴走編に入るにあたり、初回となる本稿では、まず、伴走者の心得に関することについて考察しました。

ジャートム株式会社 代表取締役
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