
※本稿では、幼児の遊び全般と学びについて、その関係や意味を考えます。
遊びは学びの中にある
ここまで、「遊び」というものを、幼い子どもが世界と関わるための大切な方法として考えてきました。まだ上手に話せなくても、子どもは遊びを通して世界とつながっているのではないか。同じことを何度も試し続けるのは、飽きないからではなく、まだ確かめている途中だからなのではないか。そして、ごっこ遊びの中で、子どもは、別の見方や別の立場や、別の世界がありうることを試しているのではないか。そんなことを少しずつ書いてきました。そうして、だんだんとはっきりしてきたことは、遊びは単なる余白でも、勉強の前の自由時間や休憩時間でもなく、遊びそのものが学びの土台なのではないか、ということです。もちろん、ここでいう学びは、学校での教科学習だけを指しているわけではありません。もっと広い意味での学びです。世界はどう出来ているのか。自分はどう関われるのか。他者は何を考えているのか。言葉はどんな場面で使われるのか。何をすると、何がどう変わるのか。そうしたことを、少しずつわかっていくこと全体です。
その土台は、幼い頃の遊びの中にかなり豊かに含まれていると感じます。今回は、そのことについて考えてみたいと思います。遊びは、なぜ学びの土台なのか。そのことを少し掘り下げてみます。
遊びは最初の「世界との対話」である
学びというと、私たちはつい「教わること」から考えがちです。誰かが教える。子どもがそれを聞く。それを覚える。そして使えるようになる。そんな流れを思い浮かべることが多いでしょう。けれども、幼い子どもの学びは、もっと手前から始まっているように思います。誰かに説明されるより前に、子どもはすでに世界とやりとりをしています。触る。見る。口に入れてみる。振る。落とす。積む。崩す。真似をする。聞く。嗅ぐ。そうした一つひとつの行為の中で、子どもは世界に問いを向け、その答えを受け取っているのではないでしょうか。
つまり、遊びとは、子どもにとって最初の「世界との対話」なのだと思います。しかも、その対話は、まだ言葉で行われるものではありません。手で問い、身体で問い、感覚で問い、その答えもまた感覚で受け取っています。ここに学びの出発点があるように思います。
遊びの中で子どもは因果関係を学ぶ
遊びが学びの土台である理由の一つは、そこに因果関係の気づきや学びがあるからでしょう。何をすると音が出るのか。どれくらい押すと動くのか。どう積むと崩れるのか。水を流すとどこへ流れるのか。何をすると相手が笑うのか。そうしたことは、誰かに言葉で教わらなくても、遊びの中で何度も試され、少しずつ掴んでいけるものです。前回書いたように、幼い子どもは、同じことをただ繰り返しているのではないのかもしれません。おそらく、繰り返しの中で少しずつ自分の動きや力加減を変えながら、何をどれくらい変えると結果がどう変わるのかを身体で確かめているのです。そこには、世界の仕組みを知ろうとする、とても根本的な学びがあるように感じます。
因果関係を知るとは、「世界は自分の行為と無関係に存在しているだけではない」という感覚を持つことでもあります。自分が働きかければ、何かが起きる。しかも、働きかけ方によって、結果は変わる。この感覚は、のちの学び全体を支える、とても大きな基盤なのではないでしょうか。
遊びの中で、予測し、修正し、また試す
学びの土台という時に重要だと思うことは、遊びの中で子どもが、予測と修正を繰り返しているということです。たとえば、積み木を積む。このくらいなら大丈夫だろうと思って積む。でも、崩れる。すると、今度は少しずらしてみる。あるいは、もっと低くしてみる。あるいは、土台を変えてみる。そこには、「こうしたらこうなるだろう」という予測と、「違った」という結果と経験、そして、「では、これならどうだ?」という修正があります。これは、とても重要な学びの型ではないでしょうか。実際、私たちが大人になってから何かを学ぶ時にも、予測し、やってみて、うまくいかなければ修正する、ということを繰り返しています。だとすれば、幼い子どもの遊びの中には、すでにその原型があるのです。
しかも子どもは、失敗を失敗として受け取っているだけではないように見えます。崩れたら、それをまた面白がる。思った通りにいかなかったら、そこからもう一度始める。この柔らかさもまた、学びの土台として、とても大切な営みなのではないかと思います。
ごっこ遊びは言葉・関係・感情の学びの土台
学びの土台というと、物の扱い方や、因果関係の理解ばかりを思い浮かべるかもしれません。けれども、子どもが学んでいるのは、それだけではありません。前回見たように、ごっこ遊びの中では、言葉も、関係も、感情も学ばれているように感じます。お店の人になる。お医者さんになる。赤ちゃんになる。先生になる。そうした中で、子どもは、その役にふさわしい言葉を使い始めます。その役にふさわしい感情の出し方も試してみています。相手の反応を見ながら、振る舞い方を変えることもあります。ごっこ遊びは、社会の中で生きるための練習の場でもあるのでしょう。ただ知識として、「こういう時にはこう言う」と覚えるのではなく、その場の空気や役割や関係の中で、言葉や感情の意味を試しているのです。
ここにも、学びの土台を見るような気がします。学びとは、単に知ることだけではない。関係の中で、どのようにふるまい、どのように受け取り、どのように応じるかを身につけていくことでもある。その練習は、幼い頃のごっこ遊びの中で、すでに始まっているのではないでしょうか。
遊びは「正解のない学び」を支えている
学校に入ると、学びは次第に、「正解に近づくこと」と強く結びつきやすくなります。もちろん、それは必要なことです。正しく読む。正しく書く。正しく計算する。そうした力は大切です。けれども、本来、学びには正解のない部分もたくさんあります。どう見ればよいのか。どう感じるのか。何が大事なのか。どうしたらうまくいくのか。そうした問いには解が一つに定まらないものも多いはずです。遊びは、そういう「正解のない学び」を支えているのではないでしょうか。なぜなら、遊びの中では、最初から答えが与えられているわけではないからです。どう遊ぶか。何を試すか。どう見立てるか。どの役をやるか。そこには、一つに決まった正解はありません。それでも子どもは、自分なりにやってみる。相手とやりとりをする。変えてみる。つくってみる。その中で、「こうすると面白い」「こうすると通じる」「こうすると崩れる」といった、自分なりの手応えを育てていきます。
この、「正解が一つではない中で、試しながら形をつくっていく力」が、後の探究や創造の土台になるように思います。
遊びの中には学びの原型がほぼ全てある
ここまで考えてくると、遊びの中には学びの原型がほとんどすべて入っているのではないか、という気さえしてきます。世界に働きかけること。結果を受け取ること。違いに気づくこと。予測すること。修正すること。見立てること。役割を試すこと。感情を動かすこと。言葉を使うこと。相手と世界を共有すること。そして、正解のない中で、自分なりの道筋をつくること。こうして並べてみると、確かに遊びの中には、後に学校で「学び」と呼ばれるものがほとんど入っているように見えます。だとすれば、遊びは学びの前段階なのではなく、学びの原型なのではないでしょうか。
ここを大事に捉えたいと思います。遊びは、学びの外側にあるものではない。むしろ学びを下から支えている見えにくい基礎なのではないか。そう考えると、幼い子どもの遊びを見る目も、少し変わってきます。
だからこそ遊びを削ることには慎重でありたい
遊びが学びの土台なのだとしたら、私たちは、遊びを「勉強に切り替わるまでの時間」として軽く扱わないほうがよいのでしょう。もちろん、遊びだけで十分だ、という単純な話ではありません。けれども、学びの基礎が育つ時期に、遊びの価値を見誤ることは、とても大きな損失につながるように思います。幼い子どもが、何かに夢中になっている。何度も同じことをしている。別の世界を見立てている。相手と役を分けてやりとりしている。そうした姿は、「まだ勉強していない」のではなく、すでに深く学んでいる姿なのかもしれません。ならば、遊びを削ることには慎重でありたいと思います。遊びを軽く見ることは、学びの土台を軽く見ることにもつながりかねないからです。
ただし、このように開かれていた遊びの世界も、成長とともに少しずつ変わっていくのでしょう。次回は、この介出シリーズのまとめとして、「人はいつから『介』を感じ始めるのか」について、考えます。
10歳からわかる「まとめ」
・遊びは、ただ楽しいだけのものではない
・子どもは遊びながら、世界のしくみをたしかめたり、言葉や気持ちの使い方を学んだりしている
・だから遊びは、「そのうち勉強が始まるまでの時間」ではなく、あとからの大きな学びを支える大切な土台なのだ
*本原稿はチャッピー君との対話を基に構成されました。
※本稿では、幼児の遊び全般と学びについて、その関係や意味を考察しました。

ジャートム株式会社 代表取締役
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