
※幼い子は「介」を感じるずっと前から「遊び」を始めています。今回からしばらく、「遊び」について考えます。
幼児は「話すことができない」存在だが
ここまで、「介入」や「介出」という言葉を手がかりに、子どもが周囲とどう関わり、どう外へ向かっていくのかについて考えてきました。その流れで、もう少し幼い子ども達のことをみてみたくなりました。幼く、まだ多くの言葉を持っていない頃。自他を隔てる「介」そのものを、まだはっきりとは感じていないかもしれない頃。その年代の子どもは、どのように世界と関わっているのだろうか。そのことを考えてみたくなったのです。英語の infant という語には、もともと「話すことができない」という意味合いが含まれているようです。けれども、幼い子ども達は「伝えられない存在」なのでしょうか。そうは思えません。たしかに、まだ十分には話せませんが、彼らは表情で伝えます。手で伝えます。身体で伝えます。近づいたり、離れたり、触ったり、真似したり。そうしながら、世界と、もうすでに豊かなやりとりをしているのではないでしょうか。そして、その関わり方の濃い形が、「遊び」と呼ばれるものなのでしょう。
遊びは暇つぶしではありません。幼い子どもにとっては、遊びこそが世界を知り、試し、確かめ、関わっていく方法なのではないか。今回はまず、そのことから考え始めてみたいと思います。
本当に「まだ足りない存在」なのだろうか
幼い子どもを見る時、私たちはつい、「まだできないこと」に目を向けがちです。まだうまく話せない。当然、まだ論理的に説明できない。まだ、落ち着いて座ってさえいられない。そうした見方は、確かに一面では正しいのかもしれません。けれども、それだけで幼い子どもを見てしまうと、大切なものを見落としてしまうように思います。なぜなら、彼らは「まだ足りない」のではなく、別の仕方で、すでに豊かに世界と関わっているからです。言葉は未熟かもしれません。けれども、見つめ方がある。手の動きがある。身体の向きがある。表情の変化がある。繰り返し触ろうとする。そうした様子を見ていると、幼い子ども達は、私たちが思う以上に、すでに世界と濃いやりとりをしています。
実際に、幼い子どもが世界とやりとりしている様子を見ていると、その濃さに驚かされることがあります。CEDEP(東京大学大学院教育学研究科附属発達保育実践政策学センター)のレポートによると、ペットボトルを水の中に入れ、浮き上がってくる時に「ぶくぶくぶく」と泡が出てくる様子と、その音に夢中になったある0歳児は、30分もそれを一人で続けたそうです。幼い子ども達は「まだ何も始まっていない存在」どころではなく、すでに豊かに、何かがもう始まっている存在なのではないでしょうか。
表情と手と身体で伝えている
言葉が十分でないということは、伝達がないということではありません。むしろ幼い子どもは、言葉以外の多くの回路や手段を使って、世界とのやりとりをしています。たとえば、何か面白そうなものを見つけた時の表情。触ってみたいものに向かって伸びる手。嫌なものからは少し身を引くような動作。繰り返し同じ動きをして何かを確かめようとする姿。そうしたものは、すべて「ただの動き」ではないのでしょう。そこには、「これが気になる」「もう一回やりたい」「これは嫌だ」「これを試したい」といった、その子なりの意味が、そして、なぜこうなるかを理解したいという好奇心が、すでに宿っているように思います。
つまり幼い子どもは、まだ十分に話せなくても、すでに表情で、手で、身体全体で、自分を取り巻く世界、すなわち「環世界」とつながっているのです。そして、その豊かなやりとりの濃い形が、「遊び」なのではないかと感じます。環世界については、以前の投稿「構成論的アプローチから『探究』を問い直す」もご覧ください。
「幼」の字が示す、手を動かすこと
いつものように、その言葉をつくっている漢字に目を向けてみました。今回は「幼」という字です。この字は、「糸枷に糸を通し、ねじっている形」に由来するそうです。私はそこに、幼い子どもにとっての「手」の大切さを見るような気がします。幼い子どもは、手をよく動かします。握る。つまむ。つかむ。引っぱる。並べる。積む。崩す。重ねる。何度も、何度も同じことをする。その動きは、単なる運動ではないのでしょう。手を動かすことは、世界に働きかけることでもあります。そしてその働きかけを通して、子どもは世界の性質を知っていきます。どれくらいで崩れるのか。どこまで押せるのか。どうすると音が出るのか。何をすると相手が笑うのか。そうしたことを、手を通して学んでいくのです。
しかも、手は、ただ物を扱うためのものではありません。手で何かを伝えることもできます。手遊びが得意なのも、その表れかもしれません。言葉が十分でない時期だからこそ、手は、世界とのあいだをつなぐ大切な回路になっているのではないでしょうか。
遊びは、世界を確かめる方法である
ここで、「遊び」を、もう少し真面目に考えてみましょう。遊びというと、私たちはつい「学びの前の自由な時間」「休憩時間」や「本番ではないもの」「集中しなくてよい息抜き」として見てしまいがちです。けれども、幼い子どもにとっては特に、それは違うでしょう。むしろ、逆、正反対ではないかと思います。幼い子どもにとって、遊びは、世界を確かめるための、もっとも本格的な方法の一つといえるのではないでしょうか。触ってみる。繰り返してみる。壊してみる。積んでみる。まねしてみる。ずらしてみる。入れてみる。出してみる。そうした遊びの中で、子どもは、世界がどのようにできているのか、自分がどのようにそれと関われるのかを学んでいるように見えます。遊びは暇つぶしではありません。それは、幼い子どもにとっての世界理解の方法であり、同時に、世界との関係を試していく方法でもあるのです。
ちなみに、「遊」という字ですが、部首はしんにょうで進むことを指しています。つくりは吹き流しを付けた旗竿に「子」を加えた形です。「旗」の字の「其」の部分が「子」に置き換わっています。これらをあわせて、「氏族旗をおし建てて気ままに行くこと。あそぶの意味」だそうです。子どもが親族に見守られて、思う存分、走り、飛び跳ね、寄り道をし、いろいろなものと触れ合いながら、それらの物々と自分との関係を試し、自分なりに整理している様子が目に浮かびます。
まだ「介」を感じていないからこその、開かれた関わり
ここで、これまで考えてきた「介」という言葉のことをもう一度思い返してみましょう。大人になるにつれて、人は自分と世界の間に様々な境界を感じるようになります。ここから先は他人のものだ。こうしたら変だと思われる。これは失敗になる。ここではこうふるまうべきだ。そうした「介」を、少しずつ意識していくのでしょう。けれども、幼い子どもは、まだその「介」を、今の私たちほど強くは感じていないはずです。だからこそ、とりあえず触ってみる。とりあえずやってみる。とりあえず真似してみる。まだ「これは外」「これは内」「ここから先は越えてはいけない」と強く分けたりはしていないように見えます。もちろん、それは危なっかしさも伴います。けれども、その一方で、そこにはとても開かれた関わり方があります。世界に対して自分を閉じずに関わる。手で、身体で、表情で、まずつながってみる。私は、この開かれた関わり方の中に、後の探究の土台が出来上がるのではないかと思っています。
つまり、人は大きくなってから急に外へ出るようになるのではなく、もっとずっと前から、遊びの中で世界とつながる方法を練習してきているといえるでしょう。
これから、遊びについて考えていきたい
私はこれから、この「遊び」というテーマについて、少し時間をかけて考えてみたいと思います。幼い子どもは、なぜ飽きずに同じことを試し続けるのか。ごっこ遊びは、何を育てているのか。遊びは、なぜ学びの土台なのか。そして人は、いつから「介」を強く感じ始めるのか。そうしたことを、少しずつ見ていきたいのです。
遊びは、単なる娯楽ではありません。それは、言葉の前からすでに始まっている、世界との豊かなやりとりといえるでしょう。まず、遊びをそのようなものとして捉えてみたいと思います。
10歳からわかる「まとめ」
・小さい子どもは、まだじょうずに話せなくても、顔や手や体をつかって、世界とたくさんやりとりしている
・遊びは、ただ楽しいだけのものではない
・遊びながら、子どもは「これはどうなるかな」「こうすると何が起きるかな」と、世界をたしかめているのだ
*本原稿はチャッピー君との対話を基に構成されました。
※本稿では、介出することにより見えてくることについて考察しました。

ジャートム株式会社 代表取締役
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