なぜ幼児は飽きずに試し続けるのか

※本稿では、幼児が遊びの中で繰り返し試し続けることの意味について考えます。

幼児は「試し続ける」

前回、幼い子どもは、まだじょうずに話せなくても、遊びを通して世界と豊かにつながっているのではないか、ということを書きました。遊びは、世界を知り、試し、確かめ、関わっていく方法といえるだろう、という話でした。

次に気になってきたことは、幼い子どもが、なぜあれほど飽きずに同じことを試し続けるのか、ということです。同じおもちゃで、何度も遊ぶ。同じ動きを、何度も繰り返す。積んでは崩し、また積む。入れては出し、また入れる。大人から見れば、「まだやっているのか」と思います。「よく飽きないなぁ」と。けれども、子どもにとって、それは本当に「同じこと」なのでしょうか。そうではないのではないかと思えてきました。ただの繰り返しではなく、もしかしたら、少しずつ変えているのかもしれません。あるいは、繰り返しながら何かをよく確かめているのかもしれません。言葉で整理する前に、手で、目で、耳で、身体全体で確かめているのではないでしょうか。

今回は、この「試し続ける」ということについて考えてみたいと思います。幼児は、なぜ飽きずに同じことを試し続けるのか。そのことを少し掘り下げてみます。

大人には「同じこと」に見えるが

幼い子どもの遊びを見ていると、大人はしばしば「また同じことをしている」と感じます。同じ積み木を積んでいる。同じ場所にものを入れている。同じ音を何度も出している。水を流しては止め、また流している。そんな姿を見ていると、「さっきもそれをやっていたのに」と言いたくなることさえあるでしょう。

けれども、本当にそれは、「同じことの繰り返し」なのでしょうか。大人の側にはそう見えているだけで、子どもの側では、毎回違うことが起きているのかもしれません。少し強く押した時と、弱く押した時ではどう違うのか。高く積んだ時と、低く積んだ時では崩れ方は違うのか。崩れる時の音は違うのか。何をすると相手は笑うのか。そうした微妙な違いを、子どもは一つひとつ確かめているのではないでしょうか。だとするなら、大人の目に「反復」に見えているものは、子どもにとっては、まだ終わっていない探究の途中なのかもしれません。

幼児には「わかったつもり」はないのかも

大人は、ある程度わかると、次へ進みたくなります。一度できたら、もういいと思うこともあります。やり方がわかりさえすれば、それで十分だと感じることもあるでしょう。けれども幼い子どもは、そこで止まりません。一度できても、またやる。一度見ても、また見る。一度音が出ても、また鳴らす。それは、「わかったつもり」で止まらないからなのではないか、と思えてきました。

大人は言葉で理解した時に「わかった」と感じます。けれども、言葉がわからない幼児には、その「言葉で理解する」は起こりません。手で確かめる。目で見る。耳で聞く。身体でやる。そうやって初めて、自分の中で納得を積み上げていくのかもしれません。幼児にとっての「わかった」は言葉では成立せず、身体の中で少しずつできていくもの。だからこそ、同じことを何度でも試し続ける。それは、幼児なりの理解のしかたなのではないでしょうか。その代わりに、幼児には「わかったつもり」で止まることは少ないのかもしれません。彼らの「わかった」は、身体の中で積み上げられていく、より手応えのある「わかった」なのではないでしょうか。

繰り返しは違いを感じ取るための方法かも

ここで、もう一つ大事なことがあります。それは、幼児にとっての繰り返しは、単なる再生ではなく、違いを感じ取るための方法でもあるのではないか、ということです。同じように積む。同じように落とす。同じように押す。同じように揺らす。大人にはそう見えます。けれども、子どもにとっては、毎回少しずつ違うのではないでしょうか。

力の入れ方が違う。手の位置が違う。音の響き方が違う。崩れ方が違う。相手の反応が違う。つまり、繰り返しの中で、実は、世界の細かな差異が見えてきているのではないか。私にはそんなふうに思えます。そして、ここに、遊びの面白さの核心があるようにも感じます。子どもは、同じことをしているのではなく、違いを探しているのかもしれません。そしてその違いを言葉より先に感覚でつかんでいるのでしょう。そう考えると、反復は、差異を見つけようとする、とても集中した働きなのではないでしょうか。だからこそ、そこに、飽きや退屈は生まれない。そういうことなのではないでしょうか。

ピアジェは反復の変化に注目していた

実は、ピアジェが述べた感覚運動期の整理に、似た視点を見つけることができました。0〜2歳の感覚運動期をさらに細かく分類した整理です。たとえば、生後4〜8か月頃の二次循環反応の時期には、子どもは、偶然起きた面白い結果をもう一度起こそうとして、同じ動きを繰り返します。ガラガラにたまたま手が当たり、音が鳴る。その面白さをもう一度起こそうとして、また手を動かす。そこにはすでに、「自分の動きが外の世界に変化を起こす」という初歩的な因果の学びがあると考えられているそうです。

さらに、その後の第三次循環反応の時期になると、子どもは、ただ同じことを繰り返すのではなく、条件を少しずつ変えながら結果の違いを確かめるようになるそうです。物を落とす位置を変える。投げる強さを変える。向きを変える。そうした試行錯誤の中で、「条件を変えると結果はどう変わるのか」を探っていく、というのです。これは、先の「また同じことをしているように見えるけれど、実は少しずつ違うことを試しているのではないか」ということに、よく合致しています。

私はこの点にとても興味があります。いずれは自分でも、同じ遊びに見える反復の中に、どのような微妙な違いが含まれているのかを、動画観察などで確かめてみたいと思うほどです。プロ野球のピッチャーの投球フォームを、テレビでは、横に並べた昨年と今年の動画で比較したり、凝ったものはそれらの動画を重ねて比較したりします。それくらいのことをやってみたいと思うのです。たとえば、積む・落とす・入れるといった遊びを連続して観察し、手の使い方、力加減、位置の取り方、失敗した後の修正の仕方などを記録していけば、大人には「同じこと」に見える反復の中に、どれほどの探索が含まれているのか、具体的に見ることができそうです。

試し続けることで世界の性質が見えてくる

幼児が何度も同じことを試すのは、ただ面白がっているからだけではないように思います。その面白さの中には、世界の性質が少しずつ見えてくることへの手応えも含まれているのではないでしょうか。どれくらいで崩れるのか。どこまで押せるのか。何をすると転がるのか。どうすると水がこぼれるのか。何度目で相手が笑うのか。そうしたことは、一回ではわかりません。試してみて、また試して、もう一度やってみて、ようやく見えてきます。つまり、幼児は、試し続けることで世界の法則や性質に触れている。もちろん、その「法則」は、言葉では整理されていません。けれども、身体や感覚の中では、確かに何かが蓄積しているのではないでしょうか。そう考えると、幼児の反復は世界と対話するためだと、まとめられそうです。世界はどうできているのか。自分はどう関われるのか。子どもは遊びの中で問いながら、少しずつ答えを得ていきます。その答えは、­­­あえていえば、その子が身体で集めている「データ」のようなものなのかもしれません。

「終わり」を急ぐ大人、「過程」に生きる幼児

ここで、大人との違いも見えてきます。大人は急いで結果を見たがります。できたか、できないか。わかったか、わからないか。何が言えたか、言えないか。どこまで進んだか。そうした「終わり」の側から物事を見がちです。けれども幼児は、そこに急いでいないように見えます。むしろ、その途中に長くいようとします。

何度もやってみる。崩してみる。また戻る。違うやり方を試す。そこには、終点を目指すというより、過程そのものを楽しんでいる、そこに生きている、という感じがします。この違いは、とても大きいのではないかと思います。大人が「もうわかったでしょう」と感じるところでも、幼児にとっては、まだ確かめたいことが残っている。大人が「もう終わりでいい」と思うところでも、幼児は「面白いのは、ここからだよ」と思っているのかもしれません。だから、幼児の遊びを理解するには、大人の「もう十分」という感覚を少し脇に置く必要があるでしょう。幼児は、結果よりも、世界とのやりとりの過程の中にいる。その時間を大切にしている。そう思えてなりません。

「まだ確かめている途中」なのかもしれない

ここまで考えてくると、幼児の反復に対する見え方が少し変わってきます。まだ音が足りない。まだ違いを見切れていない。まだ触り足りない。まだ納得していない。まだ途中。だから、またやる。まだやる。それは退屈だからでも、他にやることがないからでもなく、その子にとって、まだ確かめ終わっていないからなのでしょう。ここに、幼児の遊びの本質があるように思います。遊びとは、あらかじめ決まった答えに向かうものではありません。遊びとは、何度も試しながら、世界との関係を確かめていくことでもあるのでしょう。そうしながら、世界の性質と自分の関わり方を確かめていくこと。いつか何かが変わるかもしれないと思いながら、やり続けること。そして、結果が変わったら、ただ知識をアップデートするだけ。そんな思いでいるからこそ、幼児は飽きずに試し続けるのではないでしょうか。

10歳からわかる「まとめ」

・小さい子どもが同じことを何度もしているように見えても、本当は少しずつちがうことをたしかめているのかもしれない

・音がどう変わるか、どうすると崩れるか、何をするとどうなるか。そういうことを、遊びながら何度も試しているように見える

・「また同じことをしている」のではなく、「まだたしかめている途中」なのかもしれない

*本原稿はチャッピー君との対話を基に構成されました。

※本稿では、幼児が遊びの中で繰り返し試し続けることの意味について考察しました。