出してみることで思考は変わる

※「介出」第4回目の本稿では、自身の考えや思いを「外に出してみること」の効果について考えます。

越境の手前にある大切なこと

前回は、越境がなぜ子どもを変えるのかについて考えてみました。違う人や違う世界に出会うことによって、それまで当たり前だと思っていたことが揺らぐ。そして、問いの意味が変わって自分の立ち位置まで見えてくる。そうした経験が、子どもに大きな変化をもたらすのではないか、という話でした。

けれども、越境の力を考えているうちに、私はもう少し手前にある大事なことが気になってきました。それは、そもそも「出してみること」自体に、思考を変える力があるのではないか、ということです。私たちはつい、「よく考えてから、話そう」と思います。うまくまとまってから発表しよう。ちゃんと形になってから人に見せよう。そう考えるのは自然なことでしょう。けれども実際には、外に出してみることで思考自体が変わることがあるように思います。話してみると、何が言いたかったのか自分でもわからなくなる。書いてみると、わかったつもりだったことがうまく言葉にならない。誰かに見せてみると、思ってもみなかった反応が返ってくる。そうした経験の中で、私たちは自分の考えを見直し、問い自体を問い直し、思考を少しずつ深めていくのではないでしょうか。

今回は、この「出してみること」について考えてみたいと思います。出してみることで、なぜ思考は変わるのか。そのことを少し掘り下げてみます。

外に出してみてわかる、思考の輪郭

私たちは、考えることと、話すことや書くことを別々のもののように捉えがちです。まず頭の中でしっかり考える。そのあとで、外に出す。順番としては、そのように見えます。けれども、実際にはそんなにきれいに分かれてはいないのではないでしょうか。話しているうちに、初めて自分の考えが見えてくることがあります。書いている途中で「自分は、本当はここがわかっていなかったのか」と気づくことがあります。つまり、外に出すことは、考えた結果を見せることではなく、考えることそのものの一部でもあるのです。

頭の中だけで持っている時には何となくわかっているように感じられた。けれども、それを言葉にしようとした瞬間に、曖昧さが露わになってしまった。自分では筋が通っているつもりでも、いざ外に出そうとすると、どこがつながっていて、どこは飛躍してしまっているのかが見えてくる。「出してみること」の意味は、そこにあるように思います。

出してみると自分の曖昧さが見えてくる

頭の中にある時、考えは都合よくまとまっているように感じられます。ところが、それを外に出そうとした途端、そのまとまりが崩れることがあるのです。たとえば、人に話してみると、「それってどういうこと?」と聞かれて答えに詰まる。書いてみると、肝心なところがうまく言葉にならない。話がつながらない。発表しようとしてみると、自分が何をいちばん大切だと思っているのか、自分でも定まっていなかったことに気づく。こうした経験は、多くの人にあるのではないでしょうか。けれども、それは失敗ではありません。むしろ、思考が前に進んだ証拠だといえるでしょう。

曖昧さが見えたというのは、曖昧だったことを初めて自覚できるようになったということです。それまでは曖昧であることにすら気づいていなかったのです。そう考えると、「うまく言えなかった」という経験は、考えが足りなかったことの証拠であると同時に、どこが足りないのかが見えたという意味では思考が前進したことでもあるでしょう。よって、子どもが何かを出してみて、そこでつまずくことには、大きな価値があると思うのです。

他者の反応が問いを動かす

考えを外に出すと、それに対して他者の反応が返ってきます。ここがとても大事なところです。自分一人では、問いは自分の頭の中だけで回っています。けれども、それを誰かに話すと、相手が必ずしもこちらの意図通りに受け取ってくれないことに気づきます。思いがけないところに興味を持たれるかもしれません。「それって、こういうことですか」と、全然違う角度から事柄を言い換えられることもあります。あるいは、こちらが大切だと思っていた点には反応が薄く、別のところに強く反応されることもあるでしょう。こうしたことは時に戸惑いを起こします。しかし、そこが重要なのだと思います。なぜなら、その反応によって、自分の問いが揺れるからです。自分の中だけでは見えていなかったことが、他者とのあいだで浮かび上がってくる。問いの輪郭が変わる。重要度の順番が前後する。時には、問いそのものが別のものへと育っていくこともあるでしょう。

出してみることは、思考を「見せる」ことだけを指すのではありません。思考を他者との関係の中に置くことでもあるのです。そして、思考はその瞬間から、自分だけのものではなくなっていくのです。

「発表」は思考の途中で行うべきこと

学校ではよく、発表は学びの最後に置かれます。調べて、まとめて、発表する。この流れはとても一般的ですし、それ自体が悪いわけではありません。けれども、発表を「終わり」としてしまうと、少しもったいないように思います。なぜなら、発表によって、思考はまた動き始めるからです。話してみたらうまく伝わらなかった。聞いてもらったら自分の気づいていなかった点を指摘された。別の見方をもらって、「そう考えることもできるのか」と気づいた。自分の考えを言葉にしてみたことで、自分でも「本当はここが言いたかったのだ」とわかることがあるでしょう。そうしたことは、発表を経て起こります。

発表は思考の終点ではなく、次の思考の入口でもあるのでしょう。出してみることでまた問いが生まれる。考えが組み替わる。言葉が動く。そう考えると、「出すこと」は完成の証明ではなく、思考の変化の場そのものなのだと思います。

だからこそ出してみることは怖い

ここまで考えてくると、なぜ子どもがなかなか外へ出したがらないのかも、よくわかる気がしてきます。出してみるということは、自分の未完成さを外に晒すことでもあります。まだ整理しきれていない考え。うまく言葉になっていない問い。自信のないまま持っている違和感。そうしたものを外へ出すのは、誰にとっても少し怖いことです。

間違っているかもしれない。伝わらないかもしれない。浅いと思われるかもしれない。笑われるかもしれない。そうした不安があるからこそ、人は「もっとちゃんとしてから」と思うのでしょう。

けれども、思考は、ちゃんとしてからしか外へ出してはいけないものなのでしょうか。むしろ、ちゃんとしていないからこそ、出してみる価値があるのではないでしょうか。私はここに大きな逆説があるように思います。出してみると変わる。だからこそ、変わる前のものを出さなければならない。でも、変わる前のものは未完成だから、出すのが怖い。この難しさの中に、子どもの介出の本質的な困難があるのかもしれません。

大人の仕事は「出しても大丈夫な場」づくり

だとすれば、大人に必要なのは何でしょうか。私は、それは子どもに「もっと上手に話しなさい」と言うことではないと思います。完成度の高い発表を求めることでもない。整った表現だけを評価することでもないでしょう。むしろ大切なのは、未完成なまま出してみても大丈夫だと思える場をつくることなのではないでしょうか。うまく言えなくてもいい。途中で言い直してもいい。考えが変わってもいい。質問されて、答えに詰まってもいい。そうしたことが許される場でなければ、「出してみる」のは怖いことのままです。そして、そういう場があって初めて、出すことが思考を育てる方向へ働き始めるのだと思います。逆に、完成品だけが歓迎される場では、子どもはますます未完成なものを隠すようになるでしょう。その結果、出してみることによって起こるはずの思考の変化も、起こりにくくなってしまいます。

大人の役割は、うまく出させることではなく、出しても大丈夫な場を支えること、そういう「場づくり」なのだと思います。

出すことは、思考を動かすこと

今回、「出してみることで思考は変わる」と書いてみました。それは、考えを外に出すと何か別物になってしまうという意味ではありません。自分の内側にあった思考は、外へ出ることで初めて動き出す、新たに育ち始めるのです。話すことで見えてくることがある。書くことで整ってくることがある。見せることで揺さぶられることがある。反応されることで問いが育つことがある。そう考えると、「出すこと」は思考の外側にあるのではなく、思考そのものの働きの中にあるのでしょう。

介出は、ただ外へ出ることではなく、自分の問いや思いを外へ出すことで動かしていくことでもあると思います。そしてそれは、完成したと思ってからそれを見せようとするのではなく、未完成な部分を抱えたまま、それでも出してみようとすることから始まるのだと思います。

10歳からわかる「まとめ」

・考えは、頭の中だけで完成するとは限らない

・話してみたり、書いてみたり、見せてみたりすることで、自分でもわかっていなかったことが見えてくることがある

・「出してみること」で、考えそのものが、より深まっていくのだ

*本原稿はチャッピー君との対話を基に構成されました。

※本稿では、自身の考えや思いを「外に出してみること」の効果について考察しました。