探究を支える介入、閉じる介入

※「介入についての考察」は、この第6回で一旦締めることとします。締めるにあたり、探究と介入の関係に焦点を当てて全体を振り返ることとします。

探究の場面で理想的な介入とは

ここまで、「介入」という言葉について、いくつかの角度から考えてきました。介入とは何か。「介入しない」ことも実は一つの介入なのではないか。よい介入は内容よりもタイミングで決まるのではないか。さらに、問いを奪う介入と問いを育てる介入があるのではないか。

こうして振り返ってみると、介入の姿はさまざまです。人が言葉をかけることもあれば、何も言わずに待つこともある。環境を整えることもあれば、問いを少し持たせたままにすることもある。では、そうした介入は、探究にとってどんな作用をするのでしょうか。

ここまで考えてきた「介入」は、大きく二つに分かれて見えてくるように思います。一つは、探究を支える介入、もう一つは、探究を閉じる介入です。

どちらも見た目には似ていて、どちらもたいてい、善意から始まります。けれども、そのあとで子どもの問いがどうなったのかを見てみると、両者は決して同じではありません。

今回は、この違いについて、これまでの5回を振り返りながら考えてみます。

探究を閉じる介入も多くは善意から来ている

探究を閉じる介入と聞くと、乱暴な押しつけや、頭ごなしの否定を想像するかもしれません。けれども実際には、そうとは限りません。むしろ、探究を閉じる介入もたいてい親切な顔をして現れます。子どもが困っているように見える。話がまとまらない。問いがはっきりしない。そんな時、大人はつい整理してあげたくなります。前に進めてあげようと思います。「それってつまりこういうことだよね?」「たぶん、こっちを調べた方がいいよ」「こう考えてみな」と。もちろん、その気持ち自体は自然なものでしょう。けれども、そこで問いを急いで言葉にし過ぎると、子どもがまだ持っていたはずの違和感や引っかかりが、大人にとって扱いやすい問いに置き換わってしまう恐れがあります。

また、早過ぎる介入も探究を閉じることがあります。子どもがまだ迷っている途中なのに大人が先に意味づけを与えてしまう。もう少し考えられたはずなのに答えや方向を示してしまう。その場はうまく収まるかもしれませんが、問いは深まる前に閉じてしまいます。

さらに、環境もまた、探究を閉じる介入者になりえます。早く正解を書かなければならない雰囲気。黙って座っていることだけが求められる場。脱線や寄り道を許さない空気。そうしたものは、人が何かを言わなくても、問いを育ちにくくしています。

つまり、探究を閉じる介入とは、乱暴に問いを消すことだけではありません。問いが充分に育つ前に、わかりやすさや効率や「正しさ」のほうへ回収してしまうことだろうと思います。ここでいう「正しさ」は、しばしば大人の常識と言い換えられるもののことかもしれません。

探究を支える介入は問いづくりを代行しない

それでは、探究を支える介入とはどんなものでしょうか。

まず、子どもの代わりに問いを作ることはしません。その子が自分の問いを生み出し、それを育て続けられるよう補助するのが、支えることだと思います。

たとえば、すぐには答えないこと。すぐには整理しないこと。違和感を違和感のまま少し持たせておくこと。問いがまだうまく言葉になっていなくてもその未整理な状態に付き合うこと。そして、必要な時には少しだけ視点をズラしたり、比べる材料を手渡したり、問い返したりすること。こうした介入は、子どもの代わりに大人がやってあげてしまうこととは大きく異なります。その子自身が考え続けられるように、問いの周りを支えようとしているのです。

第2回で書いたように、「今は介入しない」と判断することもあります。第3回では、よい介入は内容よりもタイミングで決まるとしました。第4回では、問いを奪う介入と育てる介入の違いを見ました。第5回では、環境そのものが問いをひらいたり閉じたりしていることに触れました。

こう考えてきて、探究を支える介入は確立された技術のようなものではないと感じます。問いを回収してしまわないこと。待つこと。見極めること。環境を整えること。その子の時間に合わせること。そうしたさまざまな関わり方が重なって、ようやく成立するものです。「その子に合わせて個別になされるべきこと」といえるでしょう。

探究に必要なのは問いが生き残る介入

「よい介入」という言い方をすると、どこかに正解と呼べる形があるように聞こえるでしょうか。実際には正解はないと思いつつも、もしあるとすれば、正解かどうかを決めるのは誰でしょうか。それは介入された側です。しかも、それが判断できるのはしばらく経ってからです。その介入のあとで、子どもの問いがどう育ったかで判断されるものだと思うからです。少なくとも大人が、「上手に介入できた」と、その場で判断できる類のものではないはずです。

その介入のあとで、その子はもっと知りたくなったのか。自分の言葉で考えたくなったのか。問いは深まったのか。本当にわかったならまだしも、わかった気になってもう考えなくなってしまったのであれば、それは決して「よい介入」だったとはいえないでしょう。

次の問いが生まれたり、問いが形を変えたり、何らかの形でその問いが生き続けているのかどうか。そこを丁寧に見ていきたいと思います。

探究を支える介入は囲い込むためのものではない

ここで、もう一つ考えておきたいことがあります。それは、探究を支える介入は、子どもを安心・安全の中に留めておくことを目的としてはいけない、ということです。

これまでのシリーズでは、問いを守ること、待つこと、環境を整えること、タイミングを見極めることなどを考えてきました。それらはどれも、子どもの内側にある問いや思考を守るために必要なことだったと思います。

けれども、探究は、内に置いておくだけで完結するものではありません。問いはやがて、他者や社会や現実の世界と出会っていく必要があります。自分の中にある違和感が、外の世界とぶつかること。教室の中の思いつきが、地域や他者との関わりの中で試されること。そうしたことを通して、問いはさらに変わり、深まり、広がっていくのでしょう。

だとすれば、探究を支える介入とは、やがて子どもが自分から外へ向かっていけるようにするところまでを含むのかもしれません。

問いを潰さないこと。問いを急いで閉じないこと。問いを自分のものとして持ち続けられるようにすること。それは最終的には、その問いを抱えたまま、自分で一歩外へ出ていけるようにするための支えでもあるべきなのではないでしょうか。

介入は子どもを外へ開いていくためにある

ここまで「介入」という言葉について考えてきて、この言葉の印象が少しずつ変わってきました。最初は「介入」と聞くと、どうしても、外から手を入れること、少し強く関わること、何かを操作することのように思えていました。けれども、考え続けるうちに、それはもっと別のものとして見えてきました。

介入とは、支配することではない。答えを与えることでもない。子どもを大人の考えの中に閉じ込めることでは決してない。むしろ介入とは、問いが潰れないように守ること。考える時間を奪わないこと。その子の内側の時間に合わせること。問いがひらいていく環境を整えること。そしてやがて、その問いを抱えたまま、子どもが自分から外の世界へ向かっていけるように支えること。そうした働きなのではないかと思うようになりました。

探究を閉じる介入もあります。探究を支える介入もあります。その違いは、大人の側の意図だけでは決まりません。その介入のあとで、問いがどうなったのか。子どもが、もっと考えたくなったのか。それとも、もう考えなくなったのか。そこに、ひとつの大きな違いがあるように思います。

介入とは、子どもを閉じ込めるためではなく、開いていくためにある。いま、そんなふうに考えています。そして、その先に、もう一つ考えてみたいことがあります。それは、周囲が「あいだに入る」こととは別の、子ども自身が自らの殻や枠を越えて外へ出ていくことについてです。

「介」が鎧であるなら、子どもがその鎧を脱ぎ捨てて世界に出ていく、いわば子どもの「介出」を応援する手立てについて、次回からは考えてみたいと思います。

10歳からわかる「まとめ」

・子どもを助けるやり方には、考える力を育てるものもあれば、考える力を止めてしまうものもある

・大切なのは、大人がうまく教えたかどうかではなく、そのあとで、子どもがもっと考えたくなったかどうかだ

・よい助けとは、子どもを閉じこめるのではなく、自分で考えながら外へ進んでいけるように支えること

*本原稿はチャッピー君との対話を基に構成されました。

※本稿では、5回続いた「介入についての考察」を一旦締めるにあたり、探究と介入の関係に焦点を当てて全体を振り返りました。次回以降、介入にヒントを得た造語「介出」をキーワードに、子どもが自分から殻や鎧を破り、枠や仕切りを飛び越えていくようになるには、について考えます。