日本の高校科目「探究」の活かし方

日本で「思考の型」を学ぶ機会はあるのか?

日本の高等学校で、哲学を本格的に学ぶ機会を持つ学校はあまりないのではないでしょうか。私自身は40年以上前、倫理社会の中で哲学者の思想についての知識を暗記しようとした記憶があります。フランスのような「思考の型」を学ぶ機会が、今の生徒にはあるとすれば、それは昨2022年から正式に導入された「総合的な探究の時間」でしょう。

探究で何をするかについては、各県の教育庁から指針は出るにしても究極的な判断は各校の校長に委ねられています。
職業系の高校では、間近に迫った就職を前に地元の企業でのインターンシップに探究を当てているところもあります。生徒が自身で連絡を取り何週間かのインターンを経験するところなどは、「社会」を体験することからの学びに探究の中心を置いているといえるでしょう。
進学者の多い学校では学習法や研究法を探究することもあります。スーパーサイエンスハイスクール(SSH)認定校では科学の研究をするでしょうか。

私の出身地の福井では地域の特色・特性を活かして学校毎に進めており、ある高校ではそれこそ小中高の連携もにらんだ地域密着型の探究を、地域の実務家の協力もうまく得ながら進めている印象です。

2006年には教育基本法が改正され第13条「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」が新設されました。2008年にはその改正趣旨を反映するため社会教育法が改正され、文科省も「学校支援地域本部事業」を開始しています。2017年の社会教育法の改正では、地域学校協働活動推進員(コーディネーター)の役割が明記されました。これらの動きを見ると、地域社会の学校への関わりは社会の「正式な」要請とも受け取れます。

フランスでは「立派な市民」となることを目指し思考の型を学びます。思考の型が身に付くと、根拠に基づき思考するようになり、同じように根拠に基づき思考された他者の意見を尊重し理解しようとするようになると期待されています。

日本では、探究が確立するこれからしばらくの間は特に、その「立派な市民」を代表する社会人とのやり取りから、実践を通して思考の型を学んでいくのが現実的でしょうか。もちろん、大人も高校生も一緒に悩みながら、一進一退しながらになるとは思います。

「教えてもらう」に慣れ過ぎてしまった子ども達

ただ、社会人が探究活動に関わることで、少なくとも社会のいわゆる常識的な手続きや取引の概念を子ども達に伝えてもらえることは期待できます。
手続きはまず行うべき準備を指します。例えばビジネスで誰かに何かを依頼する際には事前にアポを取り、依頼したい内容と、なぜ、ほかでもないあなたに依頼したいのかをきちんと説明する時間を取るでしょう。取引の概念はwin-winの原則のことです。何かをしてもらうなら何かをお返しするのが基本です。

ところが、子ども達の様子を見ていると、教えてもらうことに慣れ過ぎてしまっていて、「教えてください」のセリフをいとも簡単に口にします。大人流に言えば「プライドに欠ける」ようにも見えますし、先ほどの「他者への尊重の気持ちに欠ける」とも見えます。

自分で出来るところまではやりたい、相手にわざわざ時間を割いてもらって申し訳ない、という意識があれば、例えばこんな思考になるでしょうか。
「一から説明してもらうという無駄な時間を省こう。わかるところまで自分でも調べてから行こう。ここまではわかったけれどその先の部分が何故Bになるのかがどうしてもわからない。Aの方が理にかなっているように自分には思える。なぜなら‥‥」と。

どこを教えて欲しいのかのポイントとその理由を具体的に示しつつ、自分で考える前に聞いてしまうことは避けるべきです。今は、それを無意識にしてしまっている生徒もいそうです。それでは、教えてくれる相手との「対話」を楽しむことはできません。

理想を言えば、教えてもらった後に、「お礼に何かお手伝いできることはありませんか」が口をついて出てくるようになってほしいと願いたいです。

SDGsの考え方が浸透してきているからでしょう。これからはコラボレーションが大切なキーワードの一つとなる世の中がやってくるだろうと最近至る所で実感します。人間同士だけではない、地球上の生き物すべてを指す「みんな」が、少しずつ分け合うことが大切になると感じます。もちろん、差し出す分を最も多くすべきは人間でしょう。

アンケートは「とって終わり」ではない

生徒たちが行う探究には、たいていアンケートの実施が含まれます。インターネットで色々と調べたけれどはっきりしないところがあるので、直接当事者にアンケートを実施したい、となります。そのこと自体は大きな気付きで前進です。

ここでの問題はアンケートの回答者に負担をかける感覚が欠如しがちであるということです。先ほどの誰かに教えてもらう場合よりも、更に意識が低くなっています。この2つのやっていることが同じだと認識されることはまずありません。

高校生自身も社会問題だと認めているのでそのテーマに取り組もうとしているわけですが、その困っている最中の当事者に、安易に直接聞いてみようとするのは考えものです。その点、社会人であれば、経験から「少し冷静に考えよう」となるはずです。助ける方法を探るためにどうしても聞きたいという熱意があったとしても、しかるべき関係者に相談して直接接触の可否を判断します。専門の研究機関であったとしても「自分たちの仕事は問題の原因や現状を解明し、解決策立案の担当にバトンを繋ぐこと」と割り切ることはなかなか難しいものです。アンケートの中で「今、困っていることはありませんか」の質問をして、書かれた回答をただの集計対象としてしか見なくなったら、人間としての感覚が麻痺しているといっても過言ではないかもしれません。

ましてや、高校生は自分なりの解決法を見つけようと探究に取り組むわけですから、アンケート結果を見て「早く何とかしなくては」と思わないなら、テーマの選択を間違えているのかもしれません。
「調べてみて◯◯◯ということがわかりました」では探究は終わりません。むしろそこから始まるのです。解決策を探究するわけですから。

ところで、もし、ビジネスマンで、顧客に対するアンケートを同じような感覚で行ってしまっているという認識がある方は気をつけてください。企業の場合、営業部ではないところがアンケートを担当する場合もあるでしょう。そのような大組織の場合は特に要注意です。顧客の顔を知らないで行うあらゆることには、どこか危うさが伴うものです。

相手の立場に立てば見えること

エビデンス対話は、相手の立場に立ち、その相手の視点から見てみようとする態度を持つところからスタートします。相手は、討論の相手とは限りません。関わる人すべてを指します。自分の主張のエビデンスを得ようとする際に、それに協力してくれる人たちも当然そこに含まれます。その人たちへの態度を間違えれば、エビデンスの価値にも影響が出ます。

アンケート協力者に上述のような態度で接して得た回答は、深みに欠けるでしょう。設問者が回答者に対し薄い興味関心しか持っていなければ、深掘りする質問が思い浮かぶわけがないからです。回答に「なぜそう思いますか」の理由を問う質問を投げかけるのも、せいぜい一度で終わることでしょう。理由を話してくれたその答えに、更に「なぜ」を投げかけることなく、なんとなくわかった気になり、あたかも表面をたださらって終わります。そのように得た「エビデンス」は実に弱いものです。

社会人はスパーリングパートナー

経験豊富な社会人にアドバイスを求めると、応えは自ずと実践的・実戦的なものが返ってきがちです。理論だけでなく経験も含んだ実践知を元に相談に乗ってくれるからです。実戦直前の練習相手(スパーリングパートナー)としては、もってこいといえます。

もちろん社会人も常に自分の感覚を磨き続ける必要がありますが、そのような大人と多く触れ合いながら進める探究なら、高校生にとっての学びもより大きくなるでしょう。互いの知恵を融合させながら何か新しいものを創りあげる「融知創新」の精神でいきましょう。

連載第5回に「児童生徒の自己肯定感や学習意欲を高めることに対して高い自己効力感を持つ日本の小中学校教員の割合は低い」との総括を紹介しました。探究活動に関わろうと考えている大人の方には、「能ある鷹は爪を隠す」ではなく、それを堂々と示してほしい、そして高校生が「高を括(くく)って詰めを誤る」ことのないよう鍛えてあげてほしい、と願います。

連載第5回:フランスの哲学教育がすごいワケ【前編】

10歳からわかる「まとめ」

・思考の型が身に付くと、自分は根拠に基づき考えるようになり、他者が根拠に基づき考えた意見についても大切に思い、それをわかろうとするようになる
・その思考の型を、日本で実践を通して身に付ける機会が「探究」の時間
・スパーリングパートナーを務めてくれる大人と真剣勝負のやり取りを楽しんでほしいし、良きスパーリングパートナーになれる大人が増えてもほしい
・大切に思うべき他者には探究に協力してくれる人も含まれる。インタビューやアンケートに協力してくれる人への感謝も忘れずに

【旧:WEBマガジン・作家たちの電脳書斎 デジタルデン2023年4月19日公式掲載原稿 現:作家たちの電脳書斎デジタルデン 出版事業部 (https://digi-den.net/)】

第9回「良いアイデアを出したければまずはエビデンスを見つけよう」を読む