介入について考えてみる

※今回からしばらく、「介入」について、様々な視点から考察してみようと思います。第一回の今回は、いわば導入です。

介入は「あいだに入る」こと

最近、子ども達と接する上での「適切な介入」とはどんなものか、ということについてあれこれ考えています。子どもに健全な成長を期待するなら、放っておくだけでは足りないように感じます。けれども、関われば関わるほどよいとも限りません。何らかの介入が必要だとは思うのです。ただし、それは強すぎても弱すぎてもいけない。介入する側には、きっと我慢も必要なのでしょう。

私は、何か事柄について考え始める時、郷土の大先輩・白川静氏の「白川文字学」を手がかりにしながら、その言葉をつくっている漢字の成り立ちや意味から入ります。今回は「介」の字です。ところが調べてみると、この、画数も少なく、とても簡単に書けそうに見える漢字を小学校では習わないのだということがわかりました。以前、福祉の「祉」の字を小学校では習わないと知って少し驚いたことがありました。福祉については、小学校4年生の社会科や総合で勉強するはずです。ただ、「祉」には、福祉以外の単語で出会うことはほぼありません。しかし、「介」は、介入、介護、紹介、魚介など、いろいろな言葉に使われています。また、信介、隆之介といった人の名前で、「すけ」という読みで使われる字でもあります。そう考えると、なおさら不思議です。

さて、「介」は、体の前後に鎧を着けた人の形から生まれた漢字で、よろいをつけて武装することは、身を守り、身を「たすける」ことであると同時に、他を「へだてる」ことであるというように、意味を展開できるそうです。「間にはさまる」「あいだに入る」という感覚です。人と人のあいだ。人と環境のあいだ。人と課題のあいだ。その「あいだ」に入ること。それが「介入」といえるでしょうか。

余談ですが、英語のinterventionは、まさにこの「あいだに来る」が語源です。

介入は、ただ口を出すことではない

介入と聞くと、私達はやや身構えるのではないでしょうか。余計な口出し。過剰な世話。本人の自由を奪うこと。だから、介入されたくない。そんな印象を持つ人も少なくないように思います。ただし、先程の「あいだに入ること」として捉え直してみると、少し違った見え方もできそうです。

人と人とのあいだに入り関係をつなぐ。人と課題とのあいだに入り向き合いやすくする。人と環境とのあいだに入り育ちやすい条件を整える。そう考えると、介入とは操作したり支配したりすることではなく、何かが育ったり、動いたり、出会ったりするための条件を整えることなのではないかと思えてきます。介入は、「何かが起こるようにすること」なのかもしれません。

そう捉えると、介入は指導や圧力のみではなく、支えること、つなぐこと、見守ること、問いを返すこと、環境を整えることまで含む、もっと広い働きかけとして見えてきます。

子どもの成長には放任も過介入もよくない

子どもの成長を見ていると、放っておくだけではうまく育たないと感じます。必要な時に声をかける人がいること。少しだけ背中を押してくれる人がいること。失敗しそうな時に全部を取りあげずに支えてくれる人がいること。そうした働きかけがあるからこそ、子どもは次の一歩を踏み出せるのだと思います。

その一方で、介入し過ぎても育ちにくいように思います。先回りし過ぎること。答えを与え過ぎること。失敗の余地をなくしてしまうこと。常に大人が意味づけを引き取ってしまうこと。そうした関わりは、安心を与えるようでいて、実は子ども自身が考えたり、迷ったり、選んだりする力を弱めてしまっています。

問題は「介入するか、しないか」ではないのでしょう。考えるべきは、どのように介入するかです。どれくらいの強さで。どのタイミングで。どの距離感で。どんな言葉で。何を与え、何を与え過ぎないか。そして、どんな時は我慢し、待ち、どんな時には敢えて入るのか。大切なのは、介入の有無ではなく、その質でしょう。

介入するのは人間の大人だけではない

さらに考えてみると、子どもの成長に介入するのは大人だけではありません。親や教師が子どもの成長に影響を与えるのはもちろんです。けれども友達もまた介入者でしょう。年上の子や年下の子との関係も、静かに子どもを変えていきます。地域の大人、たまたま出会った誰か、動物、自然、道具、空間、季節、偶然の出来事。そうしたものもまた、子どもの成長に働きかけているように思います。

たとえば、ペットと暮らす中で覚える責任感や気づかい。自然の中で遊ぶ中で知る怖さや手応え。ある場所の空気に背中を押されて急に発言できるようになること。道具があることで初めてやってみたくなること。こうしたものは誰かが正面から何かを教えたわけではありません。けれども確かに、その子の成長に「あいだに入って」いるのではないでしょうか。そうだとすれば、介入を考えることは、単に大人の関わり方を考えることではありません。人がどんな関係と環境の中で育つのか、その生態系全体を考えることでもあるように思います。

ここでふと、セレンディピティという言葉が思い浮かびます。人生には、偶然の出会いや関わりが大きな影響をもたらすのです。

「介入しない」ことは非介入なのか

さらに一つ、気になることが出てきます。それは、「介入しない」ということも、実は一つの介入なのではないかということです。たとえば、大人が何も言わずに見守る時、その沈黙は本当に何もしていないのでしょうか。あえて手を出さずに待つことは、単に放任なのでしょうか。そうは思えません。何も言わずに見ていることもまた、子どもに何かを伝えています。「自分でやってみていい」というメッセージになることもあれば、「今は助けない」という距離の示し方になることもあるでしょう。つまり、見守ることも、待つことも、放っておくことも、まったくの無作用ではないのです。

こう考えると、介入と非介入は、きれいには分かれないのかもしれません。問題は、何をしたかではなく、その関わりが相手にどう作用したかなのだと思います。このあたりは、次回に、もう少し丁寧に掘ってみたいところです。

文化によって「よい介入」は違うか

もう一つ、私が気になっていることがあります。それは、介入と放任のバランス感覚は、文化によってかなり違うのではないか、ということです。

たとえば、欧米、特に北欧には、自立を支えるように関わるイメージがあります。一方で、日本には、もう少し世話を焼くことや、細やかに気を配ることを肯定的に捉える文化があるように感じます。もちろん、こうした見方は単純化し過ぎると危ういのですが、それでも、子どもへの距離の取り方や、よい関わり方として期待されるものには、文化や風土ごとの差があるのではないかと思うのです。

もし日本型というものがあるのだとしたら、それはどのような特徴を持つのでしょうか。それは他のアジアの国々と似ているのでしょうか。世話好きな文化で育つことの良さと難しさは、どこに現れやすいのでしょうか。反対に、早くから自立を促すカルチャーの中で育つ子どもには、どのような力とどのような課題が生まれやすいのでしょうか。

このあたりも、今後のシリーズの中で丁寧に考えてみたいテーマです。

これから「介入」について考えていきたい

子どもの成長には、さまざまな種類の介入が必要なのだと思います。しかしそれは、何でも手を出せばよいという意味ではありません。むしろ、どんな介入が有効で、どんな介入は避けるべきか。その見極めこそが大事なのでしょう。

問いを奪ってしまう介入もあるはずです。問いを育てる介入もあるはずです。自立を支える介入もあれば、依存を深める介入もあるでしょう。そして、何もしていないように見えても、実は深く作用している介入もあるのだと思います。

これから少しずつ、この「介入」というテーマについて考えてみます。親や教師の関わり方だけではなく、友達や地域や動物や環境や道具のことも含めて。探究において、どのような介入が子どもの思考を動かし、どのような介入がその問いを奪ってしまうのかということも含めて。

「介入」という言葉には、まだ少し硬さがあります。しかし、「あいだに入る」というところから考えてみると、その硬さの奥に、成長を支えるための大事な問いが隠れているように思えてなりません。しばらく、この言葉と付き合ってみようと思います。

10歳からわかる「まとめ」

・子どもの成長のためには、ただ見ているだけではいけない。反対に、何でもしてあげてもうまくいかない

・大切なのは、その子にとってちょうどよい助け方を考えること

・「介入」というのは、だれかのあいだに入って、その人を育ちやすくしたり、動きやすくしたりすることかもしれない

・これからしばらく、どんな助け方がよくてどんな助け方は気をつけた方がいいのか、一緒に少しずつ考えていくことにしたい

*本原稿はチャッピー君との対話を基に構成されました。

※今回からしばらく、「介入」について、様々な視点から考察していきます。

余談: ギョカイ類は魚介か魚貝か

「介」はもともと鎧からきています。「魚介類」と書くのは、エビやカニ(甲殻類)、イカやタコ(軟体動物)など、貝類以外の硬い殻を持つ生き物や軟体生物も幅広く含むためだそうです。また、魚貝類は「ぎょばいるい」と読むのが本来の音読みで、貝を「かい」と読むのは訓読みです。バイ貝のバイは貝ですから、「バイ貝」とするのは、厳密にはダブりなんでしょうね。