「介入しない」ことも一つの介入

※「介入についての考察」第2回の本稿では、「介入しないこと」について考えます。

見守りが働きかけになる時

子どもが何かに苦戦している時、大人はつい手を出したくなります。うまくできなさそうな時。間違えそうな時。時間がかかっている時。見ているこちらがもどかしくなるような時。そこに善意があるほど、「少し助けてあげた方がいいのではないか」と思いやすいものです。もちろん、その助けが必要な場面はあります。一方、あえて手を出さない方がよい場面もあるように思います。ここは子どもに任せた方がいい。今は、少し迷わせた方がいい。すぐに答えを与えない方が、その子自身の考える力につながる。そう判断することがあるからです。

ではその時、大人は本当に「介入していない」のでしょうか。私は、そうは思いません。

むしろそこには、はっきりとした判断があります。「今は入らない方がよい」という判断です。だとすれば、「介入しない」こともまた、一つの介入なのではないでしょうか。

「しない」は、何もしていないことではない

私たちはつい、「介入する」と「介入しない」を、正反対のもののように考えてしまいます。けれども、実際にはそれほど単純ではないように思います。

何かを言う。手を貸す。止める。教える。問いを返す。こうしたことは、たしかにわかりやすい介入です。しかし、何も言わないこと、手を出さないこと、少し離れて見ていることも、相手に何かを伝えています。

それは単なる無関心ではなく、「今は自分でやってみてほしい」「ここは自分で越えてほしい」、あるいは、「もう少し迷っても大丈夫だ」という判断かもしれません。選択・判断の結果としての「しない」があるのです。

この意味で、「介入しない」は非介入ではありません。それもまた、相手に働きかける一つの関わり方なのです。

沈黙や距離も、相手へのメッセージになる

大人が手を出さずにいる時、その沈黙や距離は、子どもに何を伝えているのでしょうか。私はここが、とても大事だと思います。

たとえば、「自分でやってみていい」「失敗しても大丈夫」「あなたにはそれを試してみる力があると思っている」というメッセージとして送っているのではないでしょうか。

ただそれらが、「助けてもらえない」「放っておかれた」「関心を持たれていない」などと受け取られてしまうこともあるかもしれません。「介入しない」という行為は、「介入する」行為よりも誤解される可能性が高いといえるでしょう。ただし、うまく伝われば、それは大きな支えにもなりそうです。大切なのは、それが、どのような意味を持って相手に届いているか、です。

「何もしない」は決して透明ではありません。これもまた相手に作用しています。

見守りと放任の違い

「見守ること」と「放っておくこと」の違いについて考えてみましょう。

そっと陰から見守るような時、大人はその場にいないように見えて、実はかなり深く関わっています。子どもの様子を見ている。必要ならいつでも入れるようにしている。今は入らないほうがよいと判断している。つまり、見守りには関心があり、責任があり、準備があります。

それに対して、放任はどうでしょうか。そこには関心の薄さや、責任の回避が入り込んでいます。状況をよく見ていないまま、「本人の自由だから」と距離を取ることもあるでしょう。そうなると、それはもはや「今は入らない」という判断ではなく、ただ手を離しているだけ、目を離しているだけ、になってしまいます。

この違いは、とても大きいものです。待つことが有効なのは、関心を持って見ているからです。黙っていることが支えになるのは、必要な時には入る準備があるからです。「介入しない」ことが意味を持つのは、深い関わりがその背後にある時です。

「先生、答えを教えて!」

探究関連で学校訪問をした際、他の教科の授業を受けている子ども達の声が廊下に漏れてくることがあります。「なんで?」「答えは?」「教えて!」等々と聞こえてくるのですが、先生が「考えてみましょう」と促しても、「え〜、答えを教えて〜」と言い出す子もいます。考える前にすぐに答えを聞きたがる子どもは、以前より増えた気がします。

私自身がそうですが、何か疑問があると、すぐスマホやパソコンに頼る癖がついてしまっています。検索したり、今では生成AIに聞いたりすれば、簡単に情報が得られます。そんなやり方に慣れていると、「考えることは時間の無駄」とも受け取られかねません。

すぐに助けないことが思考を育てる

しかし、それでは探究にはつながりません。もちろん、考えるための材料がまったくないままでは、思考は深まりにくいでしょう。その意味で、材料集めは大切な事前作業です。

その上で、子どもが問いに詰まっている時。言いたいことがうまく言葉にならない時。発表が少し弱い時。議論がなかなか前に進まない時。大人の真価が問われているといえるかもしれません。

つい、問いを補いたくなる。意味づけをしてあげたくなる。うまく整理して前に進めたくなる。その気持ちは、とてもよくわかります。けれども、そこであまりに早く入ってしまうと、子ども自身が迷い、試し、言葉を探す時間を奪ってしまいます。実は、その少し苦しい時間の中でこそ、その子自身の思考が動いているはずなのです。

探究は、いつもすらすら進むものではありません。むしろ、立ち止まり、言い淀み、うまくまとまらず、少し迷う中でこそ、問いが深まっていきます。だからこそ、すぐに助けないことが、かえって深い介入になり得るのです。

ここでの「助けない」は、見放すことではありません。その子がいま考えていることを信じ、もう少し自分の力で進ませてみようとする判断です。その意味で、探究における見守りは、かなり高度な介入と呼べるのかもしれません。手や口を出すのを我慢するという意味では、大人にも少し苦しい時間といえるでしょう。

「いまは入らない」と判断する力

ここまで、「介入しない」ことも一つの介入であると書いてきました。正確には「今は介入しない」という判断はある、ということになるでしょう。

「しない」というと静止した感じがあります。しかし実際には動いています。その場の状況を見ながら、「今はまだ入らない方がいい」「もう少し待とう」「ここで入ると、その子の考える機会を奪ってしまうかもしれない」と頭を働かせ、判断しているのです。

そこには、見ること、待つこと、信じること、そして必要なら入る準備をしていることが含まれています。これは消極性ではありません。かなり能動的な関わり方です。

介入とは、何か目にみえることをすることだけを指すのではありません。待つこと。任せること。黙って見ていること。そうしたこともまた、相手の成長に働きかける一つの形です。

だからこそ、私たちが本当に考えたいのは、「介入するか、しないか」ではありません。どのように入るのか。どのように待つのか。そして、その関わりが相手にどのような意味を持って届いているのか。そのことを、丁寧に見つめ、考えていく必要があります。

10歳からわかる「まとめ」

・大人が何も言わずに見ていると、「何もしていない」ように見えることがある

・でも本当は「今は自分でやってみてほしい」と考えて、待っているのかもしれない

・だから「助けない」ことにも意味がある

・大切なのはただ放っておくことではなく、その子のことをじっくり見ながら、待つのか助けるのか、今はどちらがよいのかをよく考えること

*本原稿はチャッピー君との対話を基に構成されました。

※本稿では、「介入しないこと」について考察しました。