よい介入はタイミングで決まる

※「介入についての考察」第3回の本稿では、介入のタイミングについて考えます。

いつがいいか

子どもにかける言葉は、中身が大事だと言われます。たしかに、その通りでしょう。どんな言葉を選ぶか、どのように助けるかは、もちろん大切です。けれども実際には、同じ言葉でも届く時と届かない時があります。同じ助けでも、支えになる時と邪魔になる時があります。その違いを生んでいるのは、声かけのタイミングではないでしょうか。

早過ぎる介入は子どもが自分で考える機会を奪ってしまうことがあります。もう少し迷えたはずなのに大人が先に整理してしまう。もう少し試せたはずなのに大人が答えを渡してしまう。そうしたことは、親切である一方で、思考の芽を摘んでしまうこともあります。

しかし反対に、遅過ぎる介入は、子どもの意欲や安心を失わせてしまうことがあります。本当は、あと少し支えがあれば前に進めたのに、「見守られ」ているあいだに、もうダメだと感じてしまうこともあるでしょう。

だとすれば、介入を考える時に大切なのは、「何をするか」だけではなく、「いつするか」なのではないでしょうか。

早過ぎる介入は思考の芽を摘んでしまう

大人はつい、子どもが困っている様子を見ると、すぐに助けたくなります。それは自然なことです。困っているのに何もしないのは、見ている側にとっても辛いからです。けれども、少し立ち止まって考えてみると、困っていることそれ自体が、既に考えている証拠ともいえます。うまくいかない。言葉にならない。どうしたらよいかわからない。そうした状態は本人にとっては苦しいものですが、同時に、思考が働いている時間でもあります。そこへ大人が早く入り過ぎるとどうなるでしょうか。子どもは、自分で試す前に答えを受け取ることになります。自分の中で問いが熟す前に意味付けを与えられることになります。その結果、自分の力で考えたという達成感は育ちにくくなります。早過ぎる介入が思考の芽を摘んでしまう可能性について、大人はもう少し自覚したほうがよさそうです。

遅過ぎる介入は意欲や安心を失わせる

ただし、だからといって、待てばよいというわけでもありません。ここが難しいところです。子どもが本当に困りきっている時。何がわからないのかさえもわからなくなっている時。何度やってもうまくいかず自信を失いかけている時。そうした場面では、介入が遅過ぎると、思考が深まる前に意欲がしぼんでしまいます。大人が「もう少し見よう」と思っているあいだに、子どもの側では「もう自分には無理だ」「どうせわからない」という諦めの感情が大きくなってしまうのです。

待つことは、いつでもよいわけではありません。待つことが支えになる時もあれば、見捨てられたという解釈につながる時もあります。

ベストなタイミングは子どもによって違う

ここでさらに大事なのは、よいタイミングは子どもによって違うということです。ある子は、かなり長く迷っていても自分で考え続けることができます。少し苦しい時間があってもその中で粘り、何かをつかみ取ろうとします。一方で、別の子の中には、同じ長さの沈黙や試行錯誤の中で、不安のほうが強くなってしまう子もいます。

この違いが、忍耐力の違いなのか、思考の熟し方の違いなのか、不安の強さなのか、成功体験の量の差なのか、それともその日の気分や、その場の人間関係によるものなのか等々については、よくわかりません。けれども少なくともいえそうなことは、誰にでも当てはまる「これがベストのタイミング」というものはなさそうだということです。

だからこそ、介入において本当に大切なのは、その子の様子をよく見ることなのでしょう。今、この子はまだ考えているのか。それとも、考えることから離れかけているのか。困ってはいるが前に進もうとしているのか。それとも、もう心が折れかけているのか。その違いをまず見極めることが、介入の出発点になりそうです。よい介入とは、ただすぐ入ることでも、ただいつまでも待つことでもありません。その子がまだ踏ん張れる時間と、もう支えが必要な時間の境目の見極めができていること。それが、よい介入の条件なのだと思います。

タイミングは時計の問題ではない

タイミングというと、つい、何分待つか、様子を見るか、といった物理的な時間の目安を求めたくなるかもしれません。けれども、実際にはそうではないでしょう。同じ5分でも、ある子にとっては「もう少し頑張れる時間」かもしれませんし、別の子にとっては、「長すぎて不安になる時間」かもしれません。介入のベストタイミング=ちょうどよい瞬間は、時計の針によって示されるものではなく、その子の内面の時間に関わるものといえます。

その子の理解がどこまで進んでいるのか。迷いがまだ生産的なものなのか、それとも停滞に変わりつつあるのか。少し背中を押せば動き出せるのか、それとも今はまだ自分で格闘した方がよいのか。そうしたことを見ながら、「今か、まだか」を考える。介入のタイミングとは、そういう種類のものなのではないでしょうか。ここに、介入の難しさと面白さの両面があるように思います。

探究の場では、教師は「機をみる人」

このことは、探究の場面で特に大切でしょう。子どもが問いに詰まっている時。話し合いが止まっている時。発表の途中で言葉がうまく出てこない時。見ている大人はつい、何か言いたくなります。整理したくなります。助けたくなります。もちろん、それが必要な時もあります。けれども毎回そこで誰かが整えてしまえば、子どもは、自分で迷いながら考える時間を持てなくなります。また、反対に、ずっと黙って見ているだけでは、問いの火が消えてしまうこともあるでしょう。

探究において、伴走者となる大人は単に、「役に立つことを言う人」ではないのだと思います。それよりも「今は待つべきか」「今は問いを返すべきか」「今なら一言が届くか」を見極める人になるべきです。

探究における介入とは、内容の的確さだけではなく、時間の中での位置によっても決まるものである。私はそんなふうに感じています。

思考がつながるための時間を確保すること

こうした「待つ/入る」の見極めは、「相手次第」にすることだけを意味しません。時には、順番をずらしたり、別の入口を示したりすることが、有効な介入になることもあります。例えば数学の宿題を解くような場合、つまったら、答えを教えるのではなく、別の問題に先に取り組んでもらいます。すると、その問題は無事解けることがあります。解けただけでなく、その問題を解く中で、解けなかった一つ前の問題を解くヒントをつかんでしまっていることすらあります。数学の宿題は似た問題を数多く解かせるよう仕組まれているでしょう。そのため、ヒントに気づく可能性が高いといえます。普段こんな経験をしていると、子どもは、一旦保留にすること、先送りすることを怖がらずに出来るようになります。

探究の場面では、それが効果を発揮することが少なくありません。時間をおいて、別角度から見られたことによって、ふと解決策が浮かんでくるのです。

この時、介入者はただ「取り組むタイミングを少し遅らせただけ」といえるでしょう。具体的な手を下したわけではありません。なのに、しばらくして、子どもの側で自ら、「あっ、これってあれにつながっているかも」と気づき、最初の問題に自分で戻っていけたのです。

これは、答えを遅らせたのではありません。「思考がつながるための時間を確保した」と呼ぶことができる行為だと思います。

10歳からわかる「まとめ」

・大人が子どもを助ける時は、何を言うかだけでなく、いつ言うかも大切

・早く言いすぎると、自分で考える時間がなくなってしまう

・遅すぎると、「もう無理だ」と思ってあきらめてしまうこともある

・だから、その子が今どこまでがんばれているのかを見ながら、ちょうどよい時に助けることが大切

*本原稿はチャッピー君との対話を基に構成されました。

※本稿では、「介入のタイミング」について考察しました。