
※「介入についての考察」第4回の本稿では、どのような介入が、子どもが問いを育てるのに役立つかということについて考えます。
善意の「助けたい」が奪ってしまうもの
子どもが何かに引っかかった時、大人はつい手を貸したくなります。困っているように見える。言葉になっていない。話がまとまらない。そんな時、「それってつまりこういうことじゃない?」「こう考えてみたら?」「たぶんここが問題なんだよ」と言ってあげたくなるものです。
もちろん、それはたいてい善意からの行いです。子どもを助けたい。前に進ませたい。少しでも考えやすくしてあげたい。そう思うのは自然なことだと思います。けれども、その善意が子どもの問いを奪ってしまうことがありはしないでしょうか。大人が問いを整理し過ぎる。意味を言葉にし過ぎる。進むべき方向を早く示し過ぎる。すると、その場はわかりやすくなります。話も前に進みます。しかしその一方で、子どもが自分の中で抱えていたはずの「なぜだろう」が、いつの間にか、大人の問いに置き換わってしまうことがあるのです。探究において大事なのは、正しい問いを早く手に入れることなのでしょうか。むしろ、まだ言葉になっていない違和感や、うまく説明できない引っかかりを、その子自身のものとして持ち続けられることの方が大切なのではないでしょうか。
今回は、子どもの問いを奪う介入と、反対に問いを育てる介入について考えてみたいと思います。
問いを奪う介入は「親切な顔」をしている
問いを奪う介入は、むしろ、親切な顔をして現れることのほうが多いのかもしれません。問いを奪う介入と聞くと、乱暴な口出しや、一方的な押しつけを想像してしまうでしょうか。実際にはそうとは限りません。
大人は、子どもが困っているのを見ると、少しでもわかりやすくしてあげたくなります。考えやすい形に整えてあげたくなります。「つまりこういうことだよね」と言い換えてあげる。「たぶんこっちの方向だと思うよ」と道筋を示してあげる。「これを調べればいいんじゃない?」と進み方を教えてあげる。そのどれも、子どもを置き去りにしないための優しさでしょう。しかし、その優しさが、子どもの中に生まれかけていた問いを、より扱いやすい別の問いへ置き換えてしまうことがあります。その時、子どもは考えているように見えて、実は大人が整えたレールの上を進んでいるだけになってしまいます。問いを掴んだように見えて、実は大人の問いを借りているだけになることもあります。
問いを奪う介入は乱暴さの中にだけあるのではなく、親切さの中にも潜んでいるのだと思います。
子どもの問いは最初から言葉になってはいない
そもそも子どもの問いは、最初から完成した形で現れるわけではありません。「私はこれについて、こういう疑問を持っています」と、きれいな文章で差し出されることは、むしろ少ないでしょう。実際には、問いはもっと曖昧な姿で現れます。何となくそこが気になる。何度も同じことを見に行く。うまく言えないけれど、何か引っかかる。関係ないようなことをぽつりと言う。変にそこにこだわる。話が脱線しているように見える。そうした未整理な違和感や偏りや引っかかりの中に、問いの芽が潜んでいるものだと思います。
けれども、大人はそれに耐えにくい。曖昧なままだと不安になる。何について考えているのか、はっきりさせたくなる。だから、子どもの中のまだ形になっていないものを、わかりやすい言葉へと急いで翻訳したくなるのです。しかし、その翻訳が早過ぎると、問いの芯が消えてしまうことがあります。子どもにとって本当に大切だった違和感が、大人にとって扱いやすい言葉に言い換えられてしまうからです。問いは、整える前に、しばらくそのままで持っておいた方がよいことがある、と感じています。
大人が回収し過ぎれば問いは痩せていく
子どもの問いを奪う介入には、いくつかの型があるように思います。
一つは、すぐに正解へ導いてしまうことです。子どもがまだ迷っているのに「それはつまりこういうことだよ」と結論の方向を示してしまう。これでは、問いが十分に広がる前に閉じてしまいます。もう一つは、大人が問いを言語化し過ぎることです。子どもがうまく言えずにいる時、「あなたが言いたいのはこういうことだよね」と整理してあげたくなります。もちろん、それが助けになることもあります。けれども、それを大人が毎回やってしまえば、子どもは自分の内側のモヤモヤを自分の言葉で育てていく機会を失ってしまいます。さらに、大人にとって都合のよい問いに置き換えてしまうこともあります。本当は子どもが持っていた違和感は別のところにあったのに、授業で扱いやすい形、発表しやすい形、評価しやすい形へと、いつの間にか変えられてしまう。すると、問いは残っているように見えても、その子自身の問いではなくなってしまいます。
問いを奪う介入とは、子どもの問いを消してしまうことだけではありません。その子の問いを、その子のものではなくしてしまうことでもあるのだと思います。
教師という立場が醸し出す圧力
あなたが教師であれば、更に、このことは意識しておいた方がいいでしょう。それは、教師の言葉は、大人が思う以上に、子どもには強く働くことがあるということです。「先生がそう言うのだから」と、子どもがそれを正解のように受け取ってしまうことは、時代は少しずつ変化しているとはいえ、今も少なくはないでしょう。教師が問いを整理したり、意味を言葉にしたりする時には、その言葉が子どもの思考を支えるのか、それとも閉じてしまうのかに、より慎重である必要があると思います。
ある高校生に聞いた、彼の中学時代の話です。進路相談の際、将来コンビニエンスストアを経営したいと思っていた彼が、大学で経営や商売のことを勉強したいと伝えたところ、教師から「そんなのは大学生の時にアルバイトで経験できるだろう」と言われてしまったそうなのです。相手が友達の誰かであればその場で反論もできたでしょうが、それが担任の先生となれば話は別です。彼は「そうだな」と思ってしまいました。商業学を専門とする大学教授が聞けば呆れるような担任の言葉でしょうが、影響力はこれほどまでに大きいのです。教師の言葉は、ときに助言に留まらず、ものごとそのものを方向づける力をも持ってしまいます。一呼吸おいてからの対応を、普段から心がけましょう。
問いを育てる介入はすぐに答えを与えない
では、問いを育てる介入とはどんなものでしょうか。私はそれを、答えを与えることではなく、問いが問いとして育つ条件を整えることだと考えています。たとえば、すぐに意味づけをしないこと。すぐにまとめないこと。違和感を違和感のままで少し持たせてみること。「どうしてそう思ったの?」と問い返してみること。別のものと比べられる材料を渡すこと。見方を少しズラされるような対象に出会わせること。あるいは、子どもの言葉にならない感覚に急がず付き合うこと。そうした働きかけは、子どもの代わりに問いを作るわけではありません。けれども、その子の中にある問いの芽が消えずに残り、それを、少しずつ輪郭を持てるように支えることはできそうです。
問いを育てる介入とは、問いを代行することではありません。問いが自分のものとして育っていけるように、その周りの条件を整えることなのだと思います。
大人の仕事は問いが潰れないようにすること
探究の場にいると、大人はつい「よい問いを立てさせなければ」と考えてしまいます。もちろん、問いは探究の出発点ですから、その意識自体は大切でしょう。けれども、問いは大人が上手に作って与えるものなのでしょうか。そこには少し慎重でいたいと思います。
子どもの問いは、たいてい、きれいな形では現れません。それは小さな違和感だったり、妙なこだわりだったり、説明しにくい「気になる」だったり、と様々です。そうしたものを、大人がすぐに「良い問い」の形へ加工してしまうと、その子が本当に引っかかっていたものは見えなくなってしまうでしょう。だとすれば、大人の仕事は、問いを作ることよりも、問いが潰れないようにすることなのかもしれません。まだ言葉になっていないものを急いで回収しない。評価しやすい形に変え過ぎない。その子の中で問いが熟すまでの余白を守る。そして必要な時には、少しだけ材料や視点を手渡す。
探究における介入とは、答えの供給ではなく、問いの保護でもある、と思います。
よい介入は子どもの問いがどうなったかでわかる
介入がよかったかどうかは、何で判断すればよいのでしょうか。大人がうまく説明できたか。場がスムーズに進んだか。子どもが答えに近づいたか。もちろん、それらも一つの目安になりはするでしょう。けれども探究において本当に見たいのは、子どもの問いがどうなったか、どう育ったか、ではないかと思うのです。その介入のあとで子どもはもっと知りたくなったのか。自分の言葉で考えたくなったのか。問いは深まったのか。それとも、わかった気にはなったけれど、もう考えなくなったのか。そこを見なければ、介入の良し悪しは見えてきません。問いを育てる介入とは、子どもをすぐに正しい方向へ導くことではありません。その子が自分自身の問いを持ち続け、自分の力でそれを深めていけるようにすることです。大人の満足ではなく、子どもの問いが、その後どうなったかをしっかり見届けたいと思います。
10歳からわかる「まとめ」
・大人が子どもを助けようとして、すぐに答えを言ったり考えをきれいにまとめたりすると、子どもが自分で考えるための「なぜだろう」を失ってしまうことがある
・よい助け方は、子どもの代わりに問いを作ることではない
・その子の中にある「気になる」「なんでだろう」を大切にして、もっと考えたくなるように支えること
*本原稿はチャッピー君との対話を基に構成されました。
※本稿では、どのような介入が、子どもが問いを育てるのに役立つかということについて考察しました。
余談: センセイよりセンパイ
学校に行って児童・生徒を前に喋る場面では、どうしても先生と呼ばれてしまいます。しかし、私に誰かの「先を生きる」ことが出来るとはとても思えません。そこで、私はセンパイと呼んで欲しいとお願いしています。その学校の卒業生かどうかは関係ありません。先に失敗する人という意味だからです。先敗、のち成功。雨のち晴れ、陽光。

ジャートム株式会社 代表取締役
学校・企業・自治体、あらゆる人と組織の探究実践をサポート。
Inquiring Mind Saves the Planet. 探究心が地球を救う。
