見守りと共同注意

※この記事では、子どもと大人が「共に見る」関係はどう生まれるのか。共同注意の理論と学校現場のエピソードから、探究を支える「見守り」の在り方を考えます。

偶然目にした一枚の絵から

最近インターネットで目にしたある一枚の絵が、強く印象に残りました。パブロ・ピカソが描いた、3人の名前がタイトルの絵です。クロードという男の子が絵を描いていて、パロマという女の子がそれを見ています。そのふたりを包み込むように母親フランソワーズが見守っています。印象に残ったのは、その構図の「集中して何かする」「ともに在る」「見ている」「見守る」という静かな関係性が、近ごろ私がよく目にするシーンと、どこか少しずつ違ったからだと思います。学校での、主に「教える」「教わる」関係の様子とはフランソワーズの関わり方が違います。また、一人っ子の家にはパロマがいません。

大人は答えを与えるのではなく、子ども達の世界が立ち上がるのを「環境として」支え、子ども達の世界には、やる子と、今はやらずにただ見ている子がいつもいる。「探究への関わり方はこんな感じが理想ではないか」と感じました。誰かが見ている世界を、大人も子どもも周りは、できる限り、その人と同じ向きからも見ようとする。それが唯一、その場にいられる条件である。今は、そんな気がしています。

共同注意という視点

近年、ロボット開発や認知科学の分野では、このような「共同注意」の関係が、人とロボットがつながるための重要な鍵として研究が進められています。
単に同じものを見ているだけでなく、「相手はどういうふうにそれを見ているのか」を想像しながら対象を見ること。そこに、関係が生まれます。

見るという行為はとても個人的なもののようでいて、実はとても社会的な行為でもあります。誰かと「同じものを同じように見る」ことは簡単そうで、実はとても難しい。だからこそ、「共に見る」ための関係づくりが、学びの質を大きく左右するのだと思います。

「大石小学校交流会」で起きたこと

昨年末、坂井市の大石小学校が、県外の二つの「大石小」とオンラインで交流会を行いました。そのうちの一校は山梨県の大石小で、校舎の窓から富士山が見えるという、まさに絵になる環境にある学校でした。画面越しに見える富士山を、きっとその学校の子ども達は誇らしく思いながらカメラに映していたに違いありませんし、他の二校の子ども達は「いいなあ」と感じていたはずです。

けれども、発表後のやりとりでは、相手に対する質問があまり出ない時間がありました。恥ずかしさもあったのでしょうが、何を聞いたらよいのか何を伝えたらよいのか、うまく考えがまとまらなかったのかもしれません。

大人の「助け舟」が場を動かした

そのとき、二つの学校の先生が、そっと場に手を入れました。大津市の先生が「みなさんは富士山に登ったことはあるのですか」と問いかけました。坂井市の先生は「ちなみに、うちの学校の窓の外に見えるのはこんな風景です」といって、カメラを窓の外に向けました。どちらも自分のクラスの児童に指示や教示をしようとしたわけではありません。児童の想像が向かうように、「視点合わせのための介入を少しだけした」のだと思います。その後、活発なやり取りが行われていきました。もし、先の助け舟がなければ「すごい」「きれい」という感想のやりとりで終わっていたかもしれません。

今から思えば、滋賀県と福井県の二人のフランソワーズが、「同時に見る」の先にある「共に見る」への移行の手伝いをしたわけですね。

ヴィゴツキーとバンデューラの視点から

ヴィゴツキーは、人の発達はまず社会的な関係の中で起こり、それが内面化されていくと考えました。子どもは一人で世界を理解していくのではなく、他者との関係の中で、「見方」や「考え方」を借りながら育っていく存在です。交流会の場面もまさにそうでした。山梨県の子ども達は、大人の問いかけや他校の風景の提示によって、「相手はどんな場所から、どんな気持ちで、それを見ているのか」という新しい見方を、関係の中から受け取ったはずです。

また、バンデューラの「観察学習」の視点から見ても、この場面はとても興味深いものです。子ども達は、


・どんな問いが投げられるのか


・どんなふうに相手の話を引き出すのか

を、大人や他校の子どもたちの姿から学んだと思います。「質問の仕方」や「関心の向け方」そのものが、目の前でモデルとして示されていたといえます。

探究支援における「見守り」とは

探究の場では、子どもが何かに夢中になっているときに大人がすぐに答えを与えてしまえば、世界はそこで閉じてしまいます。その代わりに例えば、「もし別の人が見たら、どう見えると思う?」のような、視点の向きをそっと変える問いかけであれば、子どもには気付きにつながることもあるでしょう。このようなとき、大人は「教える人」ではなく、関係が生まれる方向を静かに整える「環境」になります。

実はその役割は大人だけのものではありません。同級生が、友だちの探究を横で見ながら「私には、こう見えたよ」と声をかけるとき、そこにもまた、小さな何かが生まれています。探究が深まるのは、「一人でじっくり考えるとき」もあれば、「誰かの見方を通して自分の見方が揺さぶられるとき」もあるはずです。

レッジョ・エミリア教育と共同注意

レッジョ・エミリア教育では、子どもは「百の言葉をもつ存在」と表現されます。それは言葉だけでなく、身体、視線、動き、沈黙、制作、遊びなど、さまざまなかたちで世界と関わり、意味をつくる存在だということです。そして、学びは一人の頭の中ではなく、子どもと子ども、子どもと大人、子どもと環境の関係の中で生まれると考えられています。

乳児期に成立する共同注意は、その関係の学びの、いちばん根っこの部分にあります。他者と同じ対象を見ながら「相手はどんな気持ちでそれを見ているのか」と想像すること。この感覚が、やがて対話や探究へと姿を変えていきます。

共に見る力を育て続けるために

探究は、一人で考え続けるだけではうまくいきません。他者の見方を通して自分の見方が揺さぶられる経験の積み重ねが大切ですし、「自分探究」には、他者の目に映っている自分の姿を意識・想像することも大切です。

乳児期の共同注意から始まった「共に見る力」は、保育園・幼稚園、小学校、中学校へとつながり、やがて、自分たちの世界を問い直す力へと育っていきます。探究は、ある時期だけに与えられる特別な学びではなく、人が人として世界と関係し続ける、とても自然な営みです。その連続性を、私たちは教育の中で、大切に守り、育てていかなくてはなりません。

10歳からわかる「まとめ」

・大人は答えを与えず、子ども達の世界が立ち上がるのを「環境として」支えよう

・大人は、「同時に見る」の先にある「共に見る」への移行の手伝いをする

・子どもは、他者との関係の中で、「見方」や「考え方」を借りながら育っていく

・探究が深まるのは、「一人でじっくり考えるとき」もあれば、「誰かの見方を通して自分の見方が揺さぶられるとき」もある

・「自分探究」には、他者の目に映っている自分の姿を意識・想像することも大切

*本原稿はチャッピー君との対話を基に構成されました。

※この記事では、子どもと大人が「共に見る」関係はどう生まれるのか。共同注意の理論と学校現場のエピソードから、探究を支える「見守り」の在り方を考えました。