
※人は、問いを与えられて学ぶのではなく、動きながら迷いながら、あとから意味をつくっていく存在なのではないだろうか。この疑問について、この記事では、構成論的アプローチや認知科学の知見を手がかりに、学校での探究実践経験と重ねつつ考察しています。
人は元来、整った順序で学んでいるのか
今更ですが、「構成論的アプローチ」という考え方に惹かれています。ロボットやAIの開発において、人間の子どもがどのように発達していくのかを手がかりに、「賢さが育っていくプロセス」に準じて、ロボット等をつくろうとする考え方です。
私が立ち止まったのは、「今、学校で行われている探究活動・学習は、本当にこのような『人の自然な育ち方』を手がかりに設計されているだろうか」とふと思ったからです。
「課題の設定」「情報の収集」「整理・分析」「まとめ・表現」のスパイラル。探究のプロセスとしてよく示されるこの流れは、あまりに整いすぎていて、どこか人為的にも感じられます。人は普段、本当にこんな順番で考え、学び、理解を深めているのでしょうか。
東十郷小学校での経験から
昨年、坂井市立東十郷小学校5年生の探究活動に関わらせてもらいました。子ども達は、自らの困りごとを何とかしようと実にたくさんのアイデアを出してくれました。どれも素直で前向きで、「何とかしたい」という気持ちがよく伝わってくるものでした。
ただ、やはり小学5年生らしく、少しずつヌケやモレもあります。それを「それではダメだよ」と切り捨ててしまうことは簡単ですが、そうはせずに、「それだと、ここが困らないかなぁ?」と問い返してみます。すると、子ども達は、「あっ、そうか。ダメだ」と、とても素直に受け止め、「じゃあ、どうしよう?」と、すぐに考え直し始めます。
子どもは、教えられて考える存在ではなく、つまずきながら、自分で気づきながら、考えを自分でつくっていく存在なのだと改めて感じます。
心と身体を分けた近代の学び
デカルト(フランス 1596-1650)の心身二元論は、人間には「考える心」と「動く身体」があり、それは別のものだという発想です。この考え方は近代の科学や教育に影響を与えました。「学ぶとは頭の中に知識を入れること」「身体はそれを運ぶための入れ物」。しかし、「心が身体を操る」というモデルでは、人間の振る舞いを十分に説明できません。実際、子ども達は考える前に動き出します。手を動かし、試し、失敗し、迷いながら少しずつ考えを深めていきます。頭だけで完結する学びなど、ほぼ無いのではないでしょうか。
子どもは「小さな大人」ではない
発達心理学者ピアジェ(スイス 1896-1980)は、子どもは小さな大人ではないと考えました。子どもには子どもなりの世界の捉え方があり、それは発達とともに変化していくといいます。認知は教えられて増えていくものではなく「発達していくもの」です。子どもは失敗しながら、試しながら、世界を自分なりに組み立て直していきます。正しさに向かって一直線に進むのではなく、行ったり来たりしながら理解を深めていく存在です。
自然な様子で活動する子ども達を見ていると、この考え方がとてもよく実感できます。大切なのは、正解に近いかどうかよりも「その子なりに今どんな世界を見ているか」であって、大人がそれに注意を払うことでしょう。
子どもが見ている世界は大人の世界とは違う
生物学者ユクスキュル(エストニア出身ドイツ 1864-1944)は、「環世界」という考え方を提案しました。同じ場所にいても、生き物ごとに「意味のある世界」は違うという考え方です。探究での触れ合いでも、子ども達が見ている世界は大人の世界とは違うのだとよく感じます。ところが、特に小学生の場合、探究のテーマや課題は大抵大人が用意します。それは教師の問題ではなく、カリキュラムの問題です。環境や福祉など、学ぶべき内容が決まっている中で、教師は「何に触れさせるか」を真剣に考え、「では、明日は養護施設の見学に行こう」と道筋をつくります。しかし、その結果、子どもの中には「福祉=困っている人のため」という理解・解釈と、「かわいそう」という感想・見方が、自然とできあがってしまうこともあります。
ここでは、「大人の環世界」で切り取られた世界が、子どもに渡されています。理想をいえば、子どもの生活の中の違和感や困りごとから始まり、気付けばそれが「福祉」と呼ばれる領域につながっていた、そんな順番の方がずっと自然なはずなのです。
環境は行為をそっと誘っている
心理学者ギブソン(アメリカ 1904-1979)の「アフォーダンス」は、環境が私たちに「こう関わることができるよ」と静かに語りかけている、という考え方です。探究も同じです。子どもは「考えなさい」と言われてから考えるのではなく、環境に引き出されて、考え始めてしまうのです。ところが、「今は課題設定の時間です」「次は情報収集です」と段階が決められると、子どもは環境ではなく手順に従うことが目的になってしまいます。本来は、何かしてしまう → そこから気づく → だから考える、この順番の方が、人の学びに近いはずなのです。
ロボット研究者ブルックス(オーストラリア 1954-)は「考えてから動く」ロボットではなく、「動きながら、結果として賢く見える」ロボットをつくろうとしました。単純な行動の積み重ねの中から、賢さが「立ち上がってくる」ように設計(サブサンプション・アーキテクチャ)したのです。探究もよく似ています。子どもは、最初から深く考えて動き出すわけではありません。とりあえずやってみる。そこから「あれ?」が生まれ、あとから「問い」になっていきます。最初から問いを作らせると、問いが生まれるのではなく、「問いを作る作業をこなす」になってしまいます。
生理学者リベット(アメリカ 1916-2007)の実験は、人が「動こう」と意識する前に、脳ではすでに動く準備が始まっていることを示しました。私達は、動いてから、「自分で決めた」と感じているのかもしれません。
探究における主体性も、「最初から立派な問いを持つこと」ではなく、動きながら迷いながら、その中で自分なりの意味を引き受けていくことなのかもしれません。問いは最初から「持つ」ものではなく、動いているうちに「背負う」ものになる。そんな気がします。
ここまで見てきた考え方に共通するのは、知性や意味は、最初から完成しているものではなく、環境とのやり取りの中から、あとから立ち上がってくる、という見方です。そう考えると、設計し、順番通りに進め、共通のフォーマットにまとめるようなことは、本当に探究なのかという疑問が残ります。それでは、人の自然な学び方から少しずつ離れてしまうのではないでしょうか。
だからこそ「本来の探究」が大切
それだからこそ、探究活動・学習の機会を大切にしなくてはいけません。「探究」は、本来、ある日突然に始まるものではないのです。
- 保育園や幼稚園で、触る、試す、失敗する、面白がる
- 小学校で、それを言葉にし、比べ、工夫し始める
- 中学校で、社会や他者と結びつけて考え始める
- 高校で、自分の生き方や進路と重ねて問い直す
こうして、探究は少しずつ、深まり、広がり、質を変えながら、つながっていくものなのだと思うのです。この連続があってこそ、探究は「特別な」活動・学習ではなく、人にとって自然な学びの姿になります。
ところが現実には、学校種が変わるたびに学びの考え方や進め方がリセットされてしまうことが少なくありません。「小学校の探究」と「中学校の探究」、「中学校の探究」と「高校の探究」が、十分につながっているとは言い難いのです。
私達は学校種を超えた探究の連携にもっと力を注がなくてはなりません。カリキュラムをそろえることを目指すのではありません。「人はどうやって学んでいくのか」「どんな環境で問いが育つのか」への理解を、保育・幼児教育から高校まで共有していくことが大切です。大人は、子ども達の成長をどう支えるかを考えながら探究活動・学習の支援に当たらねばなりません。問いを急がせるより成長の流れを大切にし、答えが合うことより学びがつながっていく道筋を守ります。探究支援は、人が人らしく学ぶことを、子どもの頃から途切れずに支え続ける営みだと感じます。
10歳からわかる「まとめ」
・提示されている「探究のプロセス」は、人の自然な学びのプロセスと合致しているのか
・子どもは、つまずきながら、自分で気づきながら、考えを自分でつくっていく存在
・問いは最初から「持つ」ものではなく、動いているうちに「背負う」もの
・幼保から高校までの連続があってこそ、探究は「特別な」活動ではなく、人にとって自然な学びの姿になる
・探究支援は、人が人らしく学ぶことを、子どもの頃から途切れずに支え続ける営み
*本原稿はチャッピー君との対話を基に構成されました。
※この記事では、構成論的アプローチや認知科学の知見を手がかりに、「人はどのように学び、問いを育てていくのか」を、学校の探究実践の経験と重ねながら考察しました。

ジャートム株式会社 代表取締役
学校・企業・自治体、あらゆる人と組織の探究実践をサポート。
Inquiring Mind Saves the Planet. 探究心が地球を救う。
