探究は安心で未整理な状態から始まる

※前回の、「対面的つながり」が探究の土台になるのではないかという考察を受け、本稿では、人はどんな場で本当に考え始めるのかについて考えてみます。

人は安心して未整理でいられる時に考え始める

前回、私は「対面的つながり」が探究の土台になるのではないか、ということを書きました。ただ、人は単に同じ場にいれば考え始めるわけではありません。

顔を合わせていても、そこで何を言っても批判されそうだとか、変なことを言ってはいけないとか、的外れだと思われたくないとか、そうした緊張が強ければ、人は自分の内側にある未整理なものを出せなくなります。しかし実際には、人が本当に考え始めるのは、整った意見を持った時ではなく、まだよくわからないことをよくわからないまま出せる時ではないでしょうか。

今回は、そのことについて考えてみたいと思います。

考えを引き出す前に、安心を設計する

私は以前、マーケティングリサーチャーとして、インタビューに立ち会ったり直接自分でインタビューしたりする仕事をしていました。その場で強く感じていたのは、一対一のデプスインタビューよりも、複数人で話し合うディスカッションの方が、思いがけず深いところまで考えが進むことがあるということです。誰かの発言がきっかけになって、別の人の記憶や感情が動く。ある人の迷いが、別の人の「それ、私も少しわかる」という反応を呼ぶ。そうしたやり取りの中で、最初にはなかった考えが少しずつ生まれてきます。こうした働きは、マーケティングの世界では「グループダイナミクス」と呼ばれます。

ただし、これが起こるためには大前提があります。

参加者が、安心して議論できることです。そのため、グループディスカッションの開始時には、いきなり本題に入るのではなく、まず簡単な自己紹介から始めます。ただし、そこでは本名を名乗る必要はありません。呼ばれたいファーストネームなどで十分です。趣味や仕事について触れてもらうことはありますが、社名までは出さないようお願いします。もしそこに業務上の取引先がいたりすると、無意識の遠慮が生まれてしまうからです。

進行の流れも、最初から核心に切り込むのではなく、徐々に本題に近づいていくように組みます。人は、場に馴染み、自分の声が受け止められる感覚を持ち始めてからでないと、本当に大事なことを話せないことが少なくありません。

私はこの経験を通して、安心が生まれるのは単なる「やさしい雰囲気」からではなく、場の設計そのものが準備として大切なのだと思うようになりました。

思いや考えは整ってから話されるものではない

このように書くと、人は安心できる場さえあれば、自然に深く考え始めるように聞こえるかもしれません。けれども実際には、安心だけで足りるわけではありません。

なぜなら、人は最初から自分の考えを整った言葉で持っているわけではないからです。むしろ多くの場合、自分が何を感じているのか、自分でもまだよくわかっていません。だからこそ、未整理なままでいられることが大切なのですが、同時に、その未整理なものにやさしく刺激を与える工夫も必要になります。

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マーケティングリサーチの現場では、そのために空欄図などを使うことがありました。たとえば、自分を中心に置いた同心円の図を用意し、対象となる複数の製品を自分が感じている「距離感」に従って配置してもらうのです。

近いものもあれば、遠いものもある。右に置かれるものもあれば、左に置かれるものもある。これには自身が右利きか左利きかが影響するようでした。また、前方にあるものもあれば、後方にあるものもあります。

この段階では、まだ理由を細かく説明してもらう必要はありません。まずは、自分の感じていることを、言葉ではなくポジションとして外に出してもらうのです。そして、その後で「なぜそこに置いたのですか」と尋ねます。すると、参加者は、配置の理由を話しながら、自分の感覚や、時には潜在的であった意識までも、少しずつ言葉にし始めます。

「置いてみる」と見えてくる

私がこの方法を気に入っているのは、説明の中で、本人も予想していなかった意味が立ち上がってくることがあるからです。

たとえば、こんな説明が聞かれたことがあります。「同じ距離ですが、前方に離れているのと、後方に離れているのは異なることを意識して置きました。前方は憧れです。高級品なので今は使えないけれど、いつか使えるようになってみたい製品です。後方に置いたのは、嫌な体験をしたのでもう二度と使いたくない製品です」

これは、とても示唆的だと思います。単に「遠い」という一言では、二つは同じに見えます。けれども、その人の中では、一方は憧れであり、もう一方は拒絶でした。しかも、その違いは、最初から言葉として整理されていたわけではなく、図の上に置いてみたことによって見えてきたのです。

人は、考えがまとまってから話すのではありません。外に出してみる。置いてみる。比べてみる。説明してみる。そうした過程の中で、自分でも気づいていなかった意味の違いに出会い、そこから初めて考えが立ち上がってくることがあります。

これは、探究にもよく似ています。子どもも大人も、最初から完成された問いや意見を持っているわけではありません。何かを見て、並べて、比べて、話してみる。その中で「あれ、同じだと思っていたけれど違うのかもしれない」と気づく。そうした小さな揺れこそが、考えることの始まりなのだと思います。

探究は整った発言から始まるわけではない

学校でも職場でも、私たちはつい「ちゃんとした意見」を求めがちです。短く、わかりやすく、要点を押さえ、筋道立てて話すこと。もちろん、それは大切です。けれども、そればかりが重んじられる場では、人は自分の中にある未整理な感覚を出しにくくなります。

「うまく言えないのですが」「まだわからないのですが」「何となく引っかかっているのですが」。そうした言葉は、一見すると未熟に見えるかもしれません。しかし実際には、そこにこそ思考の芽があることが少なくありません。探究は、まだ形になっていない違和感や迷いを安心して差し出せるところから始まるのではないでしょうか。

探究する上で大切なのは、正しい答えを早く出すことだけではありません。まだ答えになっていないものを持ち寄り、それらがどのようなものなのかを少しずつ確かめていけること。そのための関係や場を持てること。私はそこに、探究の根っこを見る気がします。

安心は雰囲気ではなく、設計できるもの

ここで改めて思うのは、安心とは心遣いや善意だけで生まれるものではないということです。もちろん、司会者や教師が穏やかであることは大切です。けれども、それだけでは充分ではありません。名乗り方をどうするか。どこまで個人情報を出すか。どの順番で話題に入るか。最初にどんな問いを置くか。言葉だけでなく、図や遊びのようなワークといった手段をどう使うか。こうしたことはすべて、「人が未整理なままでいても大丈夫だと思えるかどうか」に関わっています。つまり安心とは、雰囲気で何となく生まれるものではなく、場の構造として、ある程度は設計できるもの、設計すべきものなのです。

このことは、学校の探究でも同じでしょう。子ども達に「自由に考えていいよ」と言うだけでは、必ずしも自由にはなりません。何を言っても笑われないこと。すぐに正解を求められないこと。言葉にならない感覚を、絵や図や比喩のような別の形でも出せること。そうした条件が整ってはじめて、人は少しずつ自分の考えを動かし始めます。

探究を支えるのは知識や技術だけではなく、未整理でいられる関係と、そのために工夫された場なのではないでしょうか。

10歳からわかる「まとめ」

・人は、はじめから考えがきれいにまとまっているわけではない

・だれかの話を聞いたり、図に置いてみたり、少しずつ話したりする中で、「あ、私はこう思っていたのか」と気づくことがある

・だから、探究では、すぐに正しいことを言うことよりも、「自分でもまだよくわかっていないけれど、」と安心して口に出せることが大切

・そして、その気持ちを出しやすいように、場を工夫・設計することが大切

*本原稿はチャッピー君との対話を基に構成されました。

※前回の、「対面的つながり」が探究の土台になるのではないかという考察を受け、本稿では、人はどんな場で本当に考え始めるのかについて考察しました。