探究は脱線の中で動き出す

※前回の、「人はどんな場で本当に考え始めるのか」に続き、今回は、探究における脱線や雑談の有効性について考えてみます。

人の思考は横に逸れがち

前回、「人は、安心して未整理でいられる時に考え始める」ということを書きました。思考は最初から完成した形で現れるのではなく、安心できる場の中で少しずつ立ち上がってくるのではないかと考えています。

ただし、そのような場さえあれば、考えは自然にまっすぐ深まっていくのかといえば、必ずしもそうではありません。実際には、人の思考は予定通りに一直線に進むよりも、少し横に逸れたり、思いがけない話題に触れたりする中で動き出すことが少なくありません。

私達は、会議でも授業でも、話が逸れるとつい「本題に戻しましょう」と言いたくなります。もちろん、それも必要なことです。限られた時間の中で話を進めるには、本筋を見失わないことが大切だからです。一方で、探究においては、少し本筋から外れて見えるやりとりの中にこそ、大事なものが潜んでいることがあります。 今回は、その「脱線」について考えてみたいと思います。

脱線を拾えるのは本筋を持っている人

私は以前、マーケティングリサーチャーとして、グループディスカッションを何本もこなしてきました。その場では、必ず事前に「ディスカッションフロー」あるいは「ディスカッションガイド」と呼ばれるものを準備します。それは、大切なことを聞き漏らさないためのもの、また、話がどこかへ逸れた時、どこへ戻ればよいのかを見失わないよう、モデレーターが手元に置くものです。

こう書くと、ガイドは脱線を防ぐためのもののように聞こえるかもしれません。実際には少し違います。本当に大切なのは脱線を一律に排除することではなく、その流れが「ただ話がズレた」のか、それとも「今こそ拾うべき大事な分岐」なのかを見極めることです。その判断の目安として、ガイドには「プロービングポイント(チェックポイント)」が書き込まれています。このパートでは何について聞き取りたいのか、このテーマの核心はどこにあるのか、という見取り図です。

だからこそ、モデレーターは、その場の話が表面的には予定から外れて見えても、「これは今、聞くべきことにちゃんとつながっている」と判断すれば、その流れをあえて止めません。むしろ、その話の続きには大事なことが隠れていると察し、傾聴し、深めていきます。

つまり、脱線を活かすためには本筋が必要です。本筋があるからこそ、意味のある分岐が見える。このことは、探究においても非常に大切であると感じます。

問いが別の入口を見つけて起こるのが脱線か

私達は、話が予定から外れると、すぐに「脱線した」と考えがちです。そこで一度立ち止まって考えてみたいのです。その話は、本当にただ逸れているだけなのでしょうか。

当初の質問とは少し違う形で語られていたとしても、そのテーマの核心に近づいているのなら、それは単なる逸脱ではありません。むしろ、問いが別の入口を見つけた瞬間なのかもしれません。モデレーターの仕事は、フロー通りに話をなぞることではありません。いま起きているやりとりが、問いから離れているのか、それとも別の角度から問いの中核に近づこうとしているのかを見極めることです。

この見極めは簡単ではありません。だからこそ面白いのだとも思います。探究とは、最初に立てた問いに忠実であることだけではなく、途中で現れた意味ある揺れや違和感を受け止めながら、問いそのものを育てていく営みでもあるからです。

雑談は「雑な談義」ではない

ここで、もう一つ考えたいことがあります。それは、脱線や雑談を、私達は少し軽く見すぎているのではないかということです。

雑談という言葉には、何となく「本筋ではない話」「無くてもよい話」といった響きがあります。私はそうは思いません。雑談は、雑な談義ではないのです。

むしろ雑談とは、雑多な具体を持ち込む場なのではないでしょうか。本来の議題だけを見ていると出てこない体験。ちょっとした不満。何気ない感想。最近あった別の出来事。そうした一見ばらばらな具体が、雑談の中には自然に持ち込まれます。そして、その具体を互いに聞き合いながら、「それはつまりどういうことなのだろう」「そこに共通しているものは何だろう」と考えていくことができれば、そこには単なるおしゃべりを超えた思考対話が生まれます。さらに言えば、そうした具体の往復の中から、そのテーマの中核的な概念とも呼べるものに辿り着くことさえあるのではないでしょうか。

探究において重要なのは、最初から抽象的な概念を掲げることではなく、具体の中に潜んでいる構造を見つけていくことです。その意味で、雑談は抽象化の前段階として、とても豊かな働きを持っているように思います。

予定外の接続が新しい問いを生む

以前はよく、会社の「たばこ部屋」で新しいプロジェクトが生まれるという話がありました。あの話には一つの本質が含まれていたように思います。

業務上、直接関係のない社員同士が、たまたま同じ場所で5分程の息抜きを共に過ごす。そこで「最近どう?」と声をかける。その会話は、もちろん何かを生み出すために設計されたものではありません。ほんの短い、何でもないやり取り・挨拶です。

しかし、だからこそ、普段の会議では交わらない情報が交わる。部署をまたいだ具体が持ち込まれる。本来の担当領域を少し外れたところで、「それ、うちにも関係あるかもしれない」「そういう見方もできるのか」といった予定外の接続が起こる。そして、その小さな接続が、後から振り返ると新しいプロジェクトの芽になっていたりしたのです。

ここにも探究とよく似たものを見る気がします。人は、予め決められた役割や議題の中だけでは、なかなか新しい問いに出会えません。少し横に逸れること。本筋ではない誰かと出会うこと。雑多な具体が混ざり合うこと。そうした場面の中で、思考は思いがけない方向へ動き出します。

意味ある脱線は待つだけでは起こらない

ここでさらに考えたいのは、こうした脱線や雑談を、単に偶然に任せてよいのかということです。価値ある脱線や雑談が自然に生まれることもあります。しかし、それだけに頼っていては、現代の職場や学校では、そうした機会がどんどん減ってしまうでしょう。現代は、効率よく、要点を押さえ、必要な相手と必要なことだけをやり取りすることが重視されやすい時代です。予定外の接続や雑多な具体が入り込む余白は、放っておけば失われていってしまいがちです。だとすれば、私達は意味ある脱線や雑談が起きる場を、ある程度意識して設計する必要があるのではないでしょうか。

たとえば、本題に入る前の数分をどう使うか。部署や立場を越えて話せる機会をどうつくるか。会議や授業の中で、すぐには結論に向かわないやり取りをどこまで許せるか。あるいは、子ども達が少し寄り道しながら話せるような問いや配置をどう準備するか。そうした工夫は、一見すると遠回りに見えるかもしれません。しかし、実際には、その遠回りの中でこそ、新しい問いや発想の芽が生まれることがあるでしょう。

探究とは意味ある揺れを育てること

探究は予定通りに進めることを目指す営みではありません。もちろん、見失ってはならない本筋はあります。しかし、その本筋に忠実であろうとするあまり、途中で生まれた違和感や分岐をすべて切り捨ててしまえば、かえって問いは痩せ細ってしまいます。伸びた枝の先の葉が、光合成を行うことによって得た養分を運ぶからこそ、根や幹は育つのです。

大切なのは、脱線をただ許すことでも、何でも自由に話せばよいと考えることでもありません。本筋を持ちながらその途中で生まれる意味ある揺れを見逃さずに育てていくこと。それが、探究を支える大事な力なのではないかと思います。人の思考は、きれいな一本道の上では動きません。少し逸れたところで出会う具体。何気ない雑談。予定外の接続。そうしたものの中にこそ、本当に考えるための入口が隠れているはずです。

10歳からわかる「まとめ」

・話し合いをしていると、ちがう話が出てきて、「それは今の話と関係ないよ」と言いたくなることがある

・しかし、そのちがう話の中に、大事なヒントがかくれていることもある

・大切なのは、話がそれたかどうかではなく、その話がほんとうは大切なことにつながっているかどうか。そして、そういう見方でその話をとらえられること

・まっすぐ進むことだけでなく、少し話がゆれた時に見つかる「なぜだろう」を大事にすることが、探究で考えを深めることにつながる

*本原稿はチャッピー君との対話を基に構成されました。

※前回の、「人はどんな場で本当に考え始めるのか」に続き、今回は、探究における脱線や雑談の有効性について考察しました。